江戸時代後期に出された異国船打払令。
幕末の混乱の中に出され諸外国に対する江戸幕府の対応を知るために重要なものです。
今回はそんな異国船打払令について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
異国船打払令とは?
異国船打払令とは、江戸幕府が1825年(文政8年)7月に発した外国船追放令のことです。
無二念打払令、外国船打払令、文政の打払令とも言われ、日本の沿岸に接近した外国船を見つけ次第、砲撃するよう命じたものです。
しかし、この異国船打払令は1842年(天保13年)に緩和されています。
異国船打払令が出された背景と理由
(長崎の出島 出典:Wikipedia)
①鎖国政策をとる日本
江戸時代、幕府は長く鎖国政策をとっていました。
鎖国政策とは1639年~1854年にキリスト教の布教の防止、貿易の管理を目的とした諸外国への対外政策のことを言い、当時は朝鮮、中国、オランダとの間でのみ貿易を行っていました。
②欧米諸国の接近
江戸時代後期、特に寛政年間(1789年~1801年)に入ると欧米諸国が交易を求めて日本近海に現れます。
1791年にはアメリカ人として初めて探検家であるジョン・ケンドリックが来日し、日本に数日滞在しました。
ロシアからは1792年、アダム・ラクスマンが根室に、1804年にはニコライ・レザノフが長崎に来航し貿易を求めて交渉を行いましたが幕府はこれを拒否しました。
③文化の薪水給与令の発令
ロシアやイギリスの軍艦が交易を求めて日本近海に現れることが増え、またアメリカの捕鯨船などが寄港地を求めて日本に立ち寄ることもあり、幕府は対応に苦慮していました。
1806年に幕府は日本に立ち寄った外国船に対して飲料水・燃料の補給を認める文化の薪水給与令を発令しました。
④文化の薪水給与令の廃止
(レザノフの船と部下 出典:Wikipedia)
しかし、1806年にロシアの外交使節だったレザノフの部下が利尻島・択捉島を襲撃し、日本人がロシアに連行される事件が起こります。
この事件をきっかけに江戸幕府は蝦夷地防衛に乗り出し、日本とロシア間の緊張が一気に高まりました。(文化露寇)
結果、薪水給与令はわずか一年で廃止されることとなります。
⑤その後も起きる色んな事件・・・そして『異国船打払令の発令』
(イギリスのフェートン号 出典:Wikipedia)
1808年にはイギリス軍艦であるフェートン号が長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質にとり薪水・食料を強要するフェートン号事件が起こります。この事件により役人数名が処罰されました。
その後もイギリス船は日本近海にたびたび現れます。
1824年には水戸藩の大津でイギリス人が捕鯨のために日本に上陸し、船内に病人がいることが分かった水戸藩が、野菜や水を与えたことが非難された大津浜事件が起こります。
同じ年に薩摩藩の宝島にイギリス船が来航し島民に牛を寄こすよう要求し、島民が断るとイギリス人20~30人が上陸し牛3頭を強奪、これを見た薩摩藩の役人らがイギリス人1人を殺害した宝島事件も起こりました。
さらに同じ1824年に水戸藩の漁師が数年前から欧米の捕鯨船の乗組員と物々交換を行っていたことが発覚し300人以上が取り調べを受けました。
これらの事件が動機となり江戸幕府は1825年に外国船追放令となる異国船打払令を発令します。
異国船打払令の内容
1825年に出された異国船打払令の内容は、当時貿易をしていたオランダ・清(中国)以外の日本沿岸に来航した外国船を見つけ次第砲撃することを命じたものです(外国船が逃げた場合は追わないで良い)。
触書に「二念なく打ち払ひを心掛け」という文言があることから無二念打払令とも言われています。
幕府の天文方であった高橋景保は、日本近海に来航するイギリス船は長期間の航海により食料等が不足している捕鯨船なので威嚇すれば来なくなること、放置するとキリスト教布教の恐れがあることを進言しました。
このように、高橋景保は文化の薪水給与令から異国船打払令への幕府の方針転換に大きな影響を与えました。
異国船打払令は次々と来航する外国船から鎖国政策をとっている日本を守ることを目的として出された強硬策です。
それと同時に日本の民衆が幕府転覆などを図らないよう、外国人と日本の民衆との関わりを絶つこともねらいであったといわれています。
異国船打払令の影響とその後
(アメリカのモリソン号 出典:Wikipedia)
①モリソン号事件
江戸時代には日本の船乗りが漂流し外国船に保護されることがたびたび起こっていました。
1837年にアメリカのモリソン号が漂流した日本人の送還を兼ねて、貿易の交渉を目的として来航しましたが、浦賀奉行所が異国船打払令に従って砲撃し、退去させるモリソン号事件が起こりました。
翌年、オランダ商館長からモリソン号が漂流した日本人の送還を兼ねて来航していたことを伝えられ、江戸幕府に対する批判が高まりました。
②蛮社の獄
モリソン号に対する江戸幕府の対応を批判し、三田藩家老の渡辺崋山が「慎機論」を、陸奥水沢出身の医師高野長英が「戊戌夢物語」を記しました。
その当時江戸幕府はモリソン号事件を契機に江戸湾防備の検討を始め、洋学者の江川太郎左衛門と洋学に反感を持つ鳥居耀蔵に調査を命じていました。
この中で生まれた軋轢もあり、鳥居らは洋学者への弾圧を行います。
蛮社の獄とは幕府が渡辺崋山、高野長英らが所属していた洋学者の集まりである尚歯会を弾圧した事件のことを言います。
渡邊・高野の両者は幕府に無断で小笠原諸島に渡航しようとしていたことを理由に逮捕されますが、その過程でモリソン号事件に対して幕府を批判した罪で処罰されました。
③日本国内の動揺とアヘン戦争
異国船打払令が出された後、1833年洪水や冷害により天保の大飢饉が起こり、全国各地で多数の餓死者が出ます。
米価も高騰したため、各地で一揆や打ちこわしが起こり、幕府直轄領である甲斐で起こった天保騒動や大阪町奉行の元与力が起こした大塩平八郎の乱など日本各地で動揺が広がります。
そんな中、江戸幕府にさらなる動揺を与えたのが、1840年~1842年にイギリスと清との間で起こったアヘン戦争によるイギリスの勝利です。
清との貿易が赤字となっていたイギリスが清国内にアヘンを密輸し、清国政府がイギリス商人を追放。それが元にアヘン戦争が起こりました。
清を高い軍事力を持つ大国と考えていた江戸幕府は、この清の敗北に動揺します。
それまで異国船打払令を出し諸外国に対して強硬政策をとっていましたが、欧米の軍事力の高さを認識し、その方針を転換させることになりました。
この日本国内で広がる動揺と諸外国への方針転換が、鎖国政策の終わりにつながっていくことになります。
④異国船打払令の緩和『天保の薪水給与令』
幕府の諸外国への方針転換として当時の老中水野忠邦は1842年に異国船打払令の緩和を行います。(天保の薪水給与令)
天保の薪水給与令とは漂着した外国船には食料や燃料の補給を許可するもので、アヘン戦争でのイギリスの勝利で衝撃を受けた幕府が欧米との戦争を避けるために出したものです。
この時点ではまだ開国には至っていませんが、これをきっかけとして日本は開国へと向かっていくのです。
まとめ
✔ 異国船打払令とは諸外国の船を見つけ次第に砲撃するよう命じたもの。
✔ 異国船打払令はフェートン号事件などを受け、鎖国政策を続けることと日本の民衆と外国人の関わりを絶つために出された。
✔ モリソン号事件での批判やアヘン戦争を受け異国船打払令は緩和され、天保の薪水給与令が出された。