【安政の大獄とは】簡単にわかりやすく解説!!吉田松陰の処刑理由・きっかけなど

 

世の中には頑張っているんだけどなかなかいい評価がもらえない人がいます。今回紹介する安政の大獄を行った井伊直弼もそんな人の一人です。

 

安政の大獄によって様々な攘夷派の人が処罰されました。

 

今回は安政の大獄を起こした理由やそれによって引き起こされた影響について、わかりやすく説明していきます。

 

安政の大獄とは

(井伊直弼 出典:Wikipedia

 

 

安政の大獄とは、江戸幕府の大老である井伊直弼によって1858年(安政5年)から1859年(安政6年)まで行われられた弾圧のことです。

 

この安政の大獄によって攘夷派の人や一橋派の人が処罰されることになりました。

 

安政の大獄が起こる前の日本

(黒船来航の様子)

①黒船による大混乱と跡継ぎ騒動

1853年浦賀に黒船が来航してさらに来航した翌年には12代将軍徳川家慶が亡くなってしまい、幕府は大混乱となりました。

 

跡を継いだ徳川家定は非常に病弱で子供が生まれる可能性はほとんどゼロでした。

 

そこで家臣たちは家定が死ぬ前から、徳川家のルールの1つである徳川本家が断絶したら親戚の一人が将軍となる決まりについて話し合っていたのです。

 

そこで候補に選ばれたのは御三家の1つである水戸徳川家出身で御三卿の一橋家に養子として出された一橋慶喜と、同じく御三家の1つである紀伊徳川家の徳川慶福でした。

 

今回の主人公である井伊直弼は徳川慶福を支持していました。

 

ちなみに一橋慶喜を支持している人を一橋派、徳川慶福を支持している人は南紀派といいます。ここも覚えときましょう。

 

この跡継ぎ問題が安政の大獄に関わっていくのです。

 

②井伊直弼による条約締結

(タウンゼント・ハリス 出典:Wikipedia

 

 

将軍の跡継ぎについて話し合っている時にとある外国人が条約を締結しようとうずうずしていました。

 

その外国人の名はタウンゼント・ハリス。ハリスは幕府に対してたびたび条約の締結を求めていました。

 

そこで幕府は条約締結をしようとしますがここで1つ大問題が・・・。

 

なんと当時の天皇である孝明天皇は大の外国嫌いで条約締結なんてもってのほかの人だったのですが、しかし条約を結ぶためには天皇の裁可がどうしても必要です。

 

そんな時に幕府の臨時最高職である大老になった井伊直弼は非常に困ります。

 

そこで、直弼は朝廷に無断で条約を結んでしまいます。この時に結ばれた条約こそあの有名な日米修好通商条約だったのです。

 

 

もちろん天皇を無視して条約を結んだ井伊直弼はブーイングの嵐を受けてしまいます。

 

薩摩藩主だった島津斉彬は兵を引き連れて江戸まで向かおうとしたほどです。

 

しかも、その条約の内容が日本にとってものすごく不利なものだったため、人々の生活はどんどん苦しくなり次第に井伊直弼に対する不満が高まってしまいました。

 

安政の大獄の勃発

(水戸藩主 徳川斉昭)

①徳川斉昭の無断江戸登城

条約を結んだことによって世の中には外国人を日本から追い出そうとする尊皇攘夷思想が出てきます。

 

 

その考えを主張する代表的な藩が水戸藩でした。水戸藩主徳川斉昭は天皇に無断で条約を結んだ井伊直弼に対して抗議をしようと江戸城に来ます。

 

しかし、この当時の決まりとして大名は決められた時しか江戸城に来てはいけないとなっていました。斉昭はその決まりを破ったのです。

 

そして斉昭は『江戸城に無断に来るのは何事が!!!』ということで井伊直弼から藩主をやめるとともに永蟄居(死ぬまで屋敷から出れない)という処罰を受けました。

 

これが安政の大獄の始まりとなるのです。

 

②戊午の密勅

井伊直弼は斉昭の処罰後朝廷を処罰しようとします。

 

これには訳があってこの当時朝廷は水戸藩に密勅を送り井伊直弼が将軍にしたい慶福ではなく、慶喜を将軍にして外国人を追い払おうとします。これを戊午の密勅と言います。

 

本来なら密勅というものは関白である九条尚忠の許可を受けて幕府に命ずるのが筋です。

 

しかし、この密勅は九条尚忠の許可を受けずにさらに幕府ではなく水戸藩に送っていました。

 

この密勅にキレた井伊直弼は朝廷の公家や一橋派の大名、さらに尊王攘夷派の武士も処罰するようになります。これが安政の大獄の内容です。

 

安政の大獄によって西郷隆盛、徳川春嶽、一橋慶喜、橋本左内、吉田松陰などの人たちが逮捕され処刑などの処罰を受けることになります。

 

③吉田松陰が処刑された理由

(松下村塾塾長 吉田松陰 出典:Wikipedia

 

 

吉田松陰は長州藩にあった松下村塾の塾長でした。松下村塾では高杉晋作桂小五郎などの後に日本を動かすことになる人たちがたくさん勉強していました。

 

 

吉田松陰には夢があり『二十一回の猛挙(すごい行為、ルール違反、破天荒なこと)』をやろうとしていました。

 

そいて松陰は黒船が来航した時に外国に行こうとペリーに直訴したり、倒幕を唱えたりしていました。

 

しかし、行為などが幕府から危険視されたため松陰は逮捕されてしまいます。

 

当初は島流しが妥当となっていましたが、あろうことか松陰は老中の暗殺計画を自供し、さらに自分を死刑にしてくれと言い始めます。

 

井伊直弼は大激怒して松陰を処刑するように命令して松陰は29歳で斬首されることになりました。

 

安政の大獄を起こした訳とその結末

井伊直弼が安政の大獄を起こした理由は攘夷は日本をダメにすると思っていたからと私は思います。もし、攘夷を断行していたら日本は外国から攻められるのは目に見えています。

 

井伊直弼はそれ防ごうと条約を結んだりといろいろ奮闘していましたが、そのやり方はあまりにも過激すぎました。

 

いわゆる『言っていることはわかるけど、その方法さなんかやりすぎでは?』と言われる人です。今でもそんな人を見かけますよね?

 

井伊直弼はいわゆる不器用な男だったのです。

 

そして、安政の大獄のツケは1860年に訪れることになりました。1860年3月3日、井伊直弼は桃の節句による登城の際に水戸藩士に襲撃されて江戸城近くの桜田門で暗殺されてしまいました。このことを桜田門外の変といいます

 

これによって安政の大獄は終わりを迎えることになるのです。

 

 

まとめ

・安政の大獄は1858年から起こった一橋派と攘夷派の人たちを大量に処罰したこと。

・井伊直弼は朝廷に無断で条約を結んでブーイングを受けた。

・吉田松陰は老中の暗殺計画を自供したことによって処刑された。

・安政の大獄は桜田門外の変によって終わりを迎えた。