【文官任用令とは】わかりやすく解説!!なぜ制定された?目的や意味・改正について

 

今の時代 国のエリート官僚になるためには国家公務員試験というとてつもなく難関な試験を通らなければいけません。

 

しかし、戦前にはエリート官僚になるには試験を通ることに加えて藩閥とのコネが必要だった場合があったのです。

 

今回説明していく文官任用令はこのようなコネで官僚になるのを防ぐ当時としてはとても画期的なシステムでした。

 

しかしこの文官任用令はいろんなトラブルがあり、とあるごとに改正していきます。

 

今回はそんな『文官任用令』について、そして文官任用令の2度の大改正についてもわかりやすく解説していきます。

 

文官任用令とは

文官任用令とは、官僚は『文官高等試験』という今でいう国家公務員試験みたいな試験に合格した者の中から選ばなくてはいけないという決まりのことです。

 

文官高等試験が始まった、1893年(明治26年)に交付されました。

 

この命令は第二次山縣内閣と第一次山本内閣で大規模に改正されました。

 

文官任用令が出された経緯・目的

①コネと汚職まみれの藩閥政治

明治時代に突入して日本は近代国家を作ろうとしていた時期、政府の官僚たちは明治維新を成し遂げる原動力となった薩長土肥の四藩の出身の人たちがやっていました。

 

特に薩摩藩と長州藩の権力は強く主な大臣はこの二藩がほぼ独占していました。

 

こうなったら絶対に起こってしまうのがコネや賄賂。

 

官僚になりたい人たちは勉強してアピールするのではなく、大臣のコネや賄賂などでかんりょになったりしていました。

 

大臣たちも同じところ出身の人の方がいろいろ考えが似たり都合が良かったりします。

 

しかし、そのせいで派閥争い汚職が横行するなどいろいろ問題が起こっていきました。

 

②高等文官試験の設置

1893年に政府はこの状況をなんとかするために高等文官試験という試験を作ります。

 

この試験は今でいうところの国家公務員試験だと思ってくれれば良いです。

 

試験は行政科・司法科・外交科の3つに分かれていて試験科目は憲法・行政法・民法・経済学・外国語を始めさまざまな分野のテストを受けていました。

 

東京帝国大学を合格した人でも普通に不合格になる程難しかったそう・・・。

 

この試験の設置によって外交官や判事や検事などの官僚はこの試験を合格しなければなれなくなりコネで官僚になることができにくくなりました。

 

そして、1897年に文官任用令が公布され、官僚である奏任官や判任官は試験を合格しなければいけなくなりました。

 

ちなみにこの試験の合格者は東京帝国大学(東大)出身の人が圧倒的に多く、その東大出身者たちは銀時計を配られたことから銀時計組と言われたそうです。

 

文官任用令の大リニューアル

①第二次山縣内閣の改正

(山縣有朋 出典:Wikipedia

 

 

こうして出来た文官任用令。しかし、これにはとんでもない大欠陥がありました。

 

なんと官僚の一部の職業は試験を受けなくてもなれてしまったのです。

 

『え?官僚は高等文官試験を合格しなければいけなくなったじゃん!』となると思うはずです。しかし、この文官任用令は官僚の職業の一つである勅任官は自由に任命することができました。

 

自由に任命できるということは例え試験に不合格だった人でもそもそも試験を受けてない人も官僚になれるということです。

 

しかもこの時政治をする内閣は最初の政党内閣である憲政党が与党の第一次大隈内閣(通称隈板内閣)の頃でした。

 

そのこともあってこの頃は憲政党の党員が官僚になるという事態になってしまいます。

 

せっかく高等文官試験に合格しなければいけなくなったというのにこんな体たらくでは合格した人があまりにもかわいそうですよね。

 

しかし、尾崎行雄の共和演説事件によって内閣が総辞職すると、山縣有朋が内閣を成立させて第二次山縣内閣が始まりました。

 

この山縣有朋は長州藩出身の藩閥政治の中心的な人物で特に政党政治が大嫌いな人でした。

 

そのため政党員が官僚になる状況を見過ごすわけにはいけません。

 

さらに能力・知識の無い人が省庁の重要ポストにつけばその省庁がうまくいかなくなり大混乱となってしまいます。

 

そのため文官任用令は1899年に全部の官僚の職業は完全に高等文官試験を合格しなければなれなくするように改正して政党員が官僚になることを防ぎました。

 

②第一次山本内閣による改正

(山本権兵衛 出典:Wikipedia

 

 

時代は流れて1913年 桂園時代を経て山本権兵衛が内閣を成立させて第一次山本内閣が始まりました。

 

この山本権兵衛は薩摩出身の海軍大将と筋金入りの軍人ですが、この頃護憲運動が各地で起こっているいわゆる大正デモクラシーの時代でした。

 

大正デモクラシーというのはいわゆるこれまでのように藩閥政治をするのではなく人々が選んだ人が政治をやっていこうという運動です。

 

 

吉野作造が唱えた民本主義もこの時にできた考えでした。

 

しかもこの内閣が成立する前の内閣である第三次桂内閣は第一次護憲運動で総辞職に追い込まれていました。

 

 

さすがにこうなったら政党を無視することは出来ず、立憲政友会という党を与党としました。

 

山本内閣は1913年 政党の影響力が強くなっていることから文官任用令をまた改正します。

 

この改正は省庁の次官や警視総監などは試験を合格しなくても任命できるようになり、政党員は再び官僚になれるようになりました。

 

文官任用令のその後

 

 

文官任用令は第一次山本内閣による改正の後少しづつ変わっていきながら続いていきます。

 

例えば・・・日本初の本格的な政党内閣である原内閣の時では試験に受からなくてもほとんどの官僚の職業につけることができました。

 

ただ、その結果官僚が内閣の政治に口出ししたり、汚職問題が起こったり、さらには選挙に首を突っ込んだりしてしまう事態を招いてしまいました。

 

しかし、文官任用令は五・一五事件で犬養毅が暗殺されて政党政治が終わりを迎えると警視総監は自由に任命できなくなりました。

 

自由に任命できるのは省庁次官や秘書官ぐらいとなり、さらには1946年には文官任用令は廃止となってしまいました。

 

 

まとめ

・文官任用令とは高等文官試験に合格した人しか官僚にしない制度のこと

・最初の頃は一部の職業は試験を合格しなくても官僚になれた

・文官任用令は第二次山縣内閣の時と第一次山本内閣で大改正された。

・文官任用令は1946年に廃止された。