江戸時代に生まれた『浮世草子』はそれまでの小説と異なり、新しい文化として覚えておきたい重要なものです。
今回は浮世草子とは何か、浮世草子が生まれるまでの流れについてわかりやすく解説していきます。
目次
浮世草子とは
(浮世草子「好色一代男」 引用元)
浮世草子とは江戸時代前期~中期に生まれた小説の一種です。
1682年に出された井原西鶴の「好色一代男」から始まり100年近くに渡り上方中心(大阪・京など)に見られた、現実主義的・娯楽的な町人文学でした。
遊郭や劇場を舞台として男女の話を描いた好色物、町人の生活を描いた町人物などがあります。
浮世草子の内容・特徴
①「浮世」とは
浮世草子の「浮世」とは元々は平安時代からあり「憂き世」と書かれ、辛い世の中のことを言っていました。
その後、仏教的な「厭世観」という、この世は無常なものという思想が加わり「儚い世の中」という意味に変化していきました。
その意味の変化に伴い、「浮世」という漢字がふさわしい、ということで字のほうも変化したのです。
そして江戸時代に入ると快楽を求める享楽的な世界観が生まれ、儚い世の中であるなら浮かれて遊ぼうと「浮世」が肯定的に使われるようになったと言われています。
②元禄文化
浮世草子を代表とする江戸時代前期の文化のことを元禄文化と言います。
その頃の日本列島は農村における商品作物が発展し、それにより産業の発展、経済の活発化が起こりました。
それに伴い文芸や学問が著しく発達し、特に豊かな経済力を背景に成長してきた町人が大阪・京などの上方を中心に優れた作品を生み出し、庶民の生活や心情などが出版物や劇場を通して表現されます。
元禄文化の代表として浮世草子の井原西鶴、浮世絵の菱川師宣、浄瑠璃の近松門左衛門などが挙げられます。
②浮世絵との違い
(葛飾北斎『冨嶽三十六景』 出典:Wikipedia)
元禄文化の中で新しく誕生したものとして浮世草子と浮世絵があります。
どちらもその当時の町人の生活や風俗を中心に描き、また両者ともに木版によって同じものを大量に作ることができたため、比較的安価で庶民に急速にひろがりました。
その大衆の生活や風俗を描いた小説を浮世草子、絵を浮世絵と言っており、浮世草子の挿絵として浮世絵が使用されることもありました。
③浮世草子の分類
浮世草子は主に町人の生活を描いていますが、実際のテーマは様々なものがあります。
まず浮世草子の代表としては色事を中心に描いた好色物が挙げられます。
井原西鶴の「好色一代男」はその始まりであり、女性との関わりを中心として主人公の一生を描いています。
他に武士を主人公とした武家物、町人を主人公とした町人物、諸国に伝わる昔話を描いた雑話物、歌舞伎や浄瑠璃などを利用した時代物、登場人物の性格を職業などの特有の性格として描いた気質物などがあります。
浮世草子誕生まで
①平安時代までの文学
平安時代までの日本の文字は中国から来た漢字が使われており、男性貴族が主に政治で使用し、文学も漢字で表現されていました。
平安時代中期以降に平仮名・片仮名が発明され、後宮で働く女房など女性たちの間で広がります。
女性たちが仮名を使い始めたことをきっかけに男性も仮名を使用するようになりました。
これにより女流歌人の出現や仮名を使用した文学が生まれ、多くの物語が誕生しました。
②庶民への御伽草子の広がり
(御伽草子 浦島太郎 引用元)
平安時代の文学は貴族を中心として栄えていましたが、鎌倉時代に徐々に衰えていき、御伽草子と呼ばれる文学が生まれます。
それまでの物語は長編物がほとんどでしたが短編のものが増え、また内容も貴族の恋愛が描かれていたものが、古くからのおとぎ話を基にした物語や庶民を主人公としたものが増えてきます。
御伽草子は400編以上あると言われており、室町時代を中心に栄えました。
挿絵入りで文章は比較的優しいため、庶民が楽しめるものとして広がっていきます。
御伽草子の分類は公家物語、庶民物語などから想像上の異界を舞台にした異国物語や民間説話を文芸化した異類物語など多くあります。
③仮名草子の誕生
江戸時代に入ると初期には仮名草子が誕生しました。
御伽草子は手書きで書き写す『写本』という方法で複製されていたのに対し、世間に大量に広がることを目的として木版により大量に刷り販売されるようになったものを仮名草子と言います。
作者は知識人が多く、内容としては教訓を含んだ物語や説話集、事件や災害を叙述する見聞記などがありました。
④浮世草子の誕生
仮名草子の広がりから少し経ち、浮世草子が誕生します。
具体的には井原西鶴の「好色一代男」が書かれた1682年以降の作品のことを言います。
仮名草子は教訓的な物語が多かったですが、浮世草子は色事などをテーマとし、その当時の町人を主人公としているものが多く見られました。
さらに江戸中心であった仮名草子とは違い、浮世草子は京都・大阪などの上方を中心に広がり、作者も知識人から町人へと変化します。
平安時代は貴族中心に栄えていた文学が徐々に庶民にも広がり、ついには町人を中心とした浮世草子が誕生するのです。
浮世草子のその後
(井原西鶴像 出典:Wikipedia)
①井原西鶴による好色物の誕生
1682年に書かれた井原西鶴の「好色一代男」はそれまでとは異なった描写で世間に広がりました。
この井原西鶴の出現がそれまでの仮名草子を浮世草子に変えるきっかけと言える程、文学界に影響を与え、好色物を書く作家が増えました。
井原西鶴はその後、好色物に加え武家物や町人物・雑話物と書き、題材・書き方ともに新境地を開き、後の作者の指針を作りました。
井原西鶴が亡くなった後もそれを真似た好色短編物が生まれていました。
②新たな作風への変化
この好色物の全盛期に変化をもたらしたのは1700年に出された西沢一風の「御前義経記」と1701年に出された江島其磧の「けいせい色三味線」です。
「御前義経記」は源義経に関係のある古典・浄瑠璃を利用し、長編化の道を開き「けいせい色三味線」は井原西鶴の影響を受けながらも長編化&複雑化で人気を得ました。
それまで浮世草子の作者は俳句を作る俳諧師が主となっていましたが、この二人は演劇に関係した人物であり、それ以降、時代物や古典・演劇の要素を取り入れた作品が増えていきます。
江島其磧はその後、1715年に新趣向である「世間子息気質」を書き、気質物が始まります。
③浮世草子の衰退
江島其磧の死後、新たに多田南嶺が時代物や気質物を書きます。
多田南嶺が亡くなった後、時代物の基盤となっていた浄瑠璃が衰退し、浮世草子に陰りが見えます。
その後も浮世草子は発表され、中国小説の利用なども行われますが人気の回復は得られませんでした。
こうして浮世草子は衰退していき、同時期から軽快な滑稽物などを描いた江戸文学が流行していくのです。
まとめ
✔ 浮世草子とは江戸時代前期に誕生した小説で、仮名草子などとは違い町人を中心に広がった。
✔ 浮世草子は「儚い世の中を楽しもう」という考えの中で生まれ、その時代の町人を主役としたものが多い。
✔ 浮世草子の代表作として井原西鶴の「好色一代男」がある。