【虎ノ門事件とは】簡単にわかりやすく解説‼事件の原因や内容・犯人・その後など

 

大正時代に当時の皇太子であった祐仁親王が移動中に虎ノ門外にて無政府主義者の青年、難波大助に襲撃された「虎ノ門事件」がおこりました。

 

今回は、この『虎ノ門事件』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

虎ノ門事件とは?

(難波大助 出典:Wikipedia)

 

 

虎ノ門事件とは、1923年(大正12年)無政府主義者である難波大助に当時の皇太子が襲撃される事件のことをいいます。

 

この事件の背景には関東大震災後の混乱や政府の労働者弾圧に対する反発があります。

 

この事件を機に第二次山本権兵衛内閣は虎ノ門事件の責任を取り総辞職し、後任は清浦圭吾となります。

 

また、犯人である難波大助は逮捕され大逆罪で死刑が執行されました。

 

虎ノ門事件が起こった背景・原因

(難波大助の生家 出典:Wikipedia)

①難波大助の状況と退学

難波大助の父である難波作之進は庚申倶楽部所属の衆議院議員であり、父の影響を受け息子である大助も中学時代までは大変、天皇や皇室に対して敬意を払っている人物でした。

 

しかし中学卒業後は上京し、この頃から少しずつ社会主義や無政府主義に興味を持ち始めます。

 

上京して予備校に通った後、早稲田の高等学院に入学しますが1年後には退学しています。

 

②関東大震災の発生と社会不安

当時の日本はというと1923年(大正12年)9月1日関東大震災が発生し、関東一円が莫大な被害を受けていました。

 

政府は戒厳令出しましたが、震災直後の混乱の中で多数の朝鮮人が官憲や自警団によって虐殺される混沌とした時期でした。

 

③無政府主義者への弾圧(亀戸事件や甘粕事件)

また、難波が事件を起こした背景には関東大震災後の社会不安に加え、政府による労働者や社会主義者、無政府主義者への弾圧(亀戸事件や甘粕事件)に反発したためと考えられています。

 

〇亀戸事件

1923年(大正12年)9月3日から4日にかけて社会主義者であった川合義虎や平沢計七ら10名が、以前から対立していた亀戸警察署に捕らえられ、警察官によって刺殺された事件です。

 

関東大震災直後に混乱に乗じて発生しました。

 

 

〇甘粕事件

1923年(大正12年)9月16日に無政府主義者であった大杉栄と内縁の妻、伊藤野枝らが憲兵隊に拉致され殺害された事件。

 

こちらも関東大震災直後の混乱に乗じて無政府主義者を弾圧した事件です。

 

主犯が甘粕正彦と森啓次郎だったので甘粕事件(別名、大杉事件)と呼ばれます。

 

 

虎ノ門事件の発生と経過

(虎ノ門 出典:Wikipedia)

 

 

1923年(大正12年)12月27日、現在の東京都麹町区虎ノ門外において皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が、無政府主義者である難波大助に襲撃されました。

 

裕仁親王は病気を患っていた大正天皇に代わり、摂政として第48回帝国会議の開会式へ向かっているところでした。

 

皇太子の乗った車が虎ノ門外を通過しているところ、人ごみの中にいた難波大助が車に近づきステッキに仕込んだ散弾銃で皇太子を襲撃しました。

 

幸い銃弾は皇太子には命中せず、同乗していた東宮侍従長であった入江為守が軽傷を負いました。

 

 

(入江為守 出典:Wikipedia)

 

 

車は立ち止まることなく、そのまま目的地に到着しその時に初めて周囲は入江為守の出血に気づいたと言います。

 

皇太子は襲撃時の様子を「空砲だと思った」と事件後、側近に語ったと言われています。

 

犯人の難波大助は発砲後、その場から逃げようとしましたが、警官と周囲にいた群衆により取り押さえられました。

 

逃げる途中、難波は車を追って走りながら「革命万歳!」と連呼していたそうです。

 

虎ノ門事件後の影響・その後

(山本権兵衛 出典:Wikipedia)

①第二次山本権兵衛内閣の総辞職

事前当日の夕方、当時の内閣総理大臣であった山本権兵衛、内務大臣の後藤新平、司法大臣の平沼騏一郎など全ての閣僚が事件発生の責任を取り、皇太子裕仁親王に辞表を提出しました。

 

皇太子は辞表の受理に関して西園寺公望や松方正義の意見も聴いた上で、山本権兵衛を慰留しています。

 

しかし山本権兵衛の決意は固く、再度12月29日に全ての閣僚の辞表を再度提出し、ようやく1月7日に内閣の総辞職が認められました。山本権兵衛内閣の後は清浦圭吾が総理大臣になっています。

 

山本権兵衛が総理大臣になるのは二度目のことでした。

 

第一次山本権兵衛内閣はシーメンス事件の影響で総辞職をしており、二度目は虎ノ門事件の責任を取って総辞職しました。

 

図らずとも二度とも事件の責任を取る形での退任となりました。

 

シーメンス事件とは?

 

②関係者の引責辞任

閣僚だけでなく、皇太子の警護の責任を取り警視総監であった湯浅倉平と警視庁警務部長であった正力松太郎が懲戒免職となっています。

 

その他にも難波大助の出身地である山口県知事は2か月間の減俸、難波大助が立ち寄った京都府知事は謹慎処分になっています。

 

難波大助が卒業した小学校の校長と担任の先生は難波を育てたという責任を取り辞職しています。

 

難波大助の父で衆議院議員であった作之進は即座に辞表を提出し、その後は自宅からほとんど外出しない生活を送ります。

 

食事も十分にとらず、1925年(大正14年)5月に死亡しました。

 

③大逆罪での死刑執行

犯人であった難波大助は逃走を図りますが警戒にあたっていた私服警官や周りにいた群衆に取り押さえられ袋叩きにされます。

 

群衆は警察の制止を全く聞かず、警察官が難波を殴打からかばわなければならないほどだったようです。難波は逮捕された後、大逆罪で起訴されます。

 

大逆罪とは?

明治15年に制定された旧刑法が規定していた、天皇、皇后、皇太子などに危害を加えることを指した犯罪のことです。

 

天皇制によって国家を治めようとしていた大日本帝国憲法の下では大逆罪は最も重大な罪の一つとされていました。

 

大逆事件は虎ノ門事件も含めて四度起きています。幸徳事件、虎ノ門事件、朴烈事件、桜田門事件です。

 

大逆罪は大審院で審理され、政府や検察もどうにかして大助に自分の行為が誤りであったことを認めさせようとしました。

 

それほど当時の日本においては皇室に危害を加えるということはあってはならないことだったのです。

 

しかし難波は最後まで非を認めず、1924年(大正13年)11月13日に死刑の判決が出ます。

 

そして二日後の11月15日に死刑が執行されました。

 

まとめ

 虎ノ門事件とは、無政府主義者である難波大助に当時の皇太子が襲撃された事件のこと。

 その背景には関東大震災後の混乱や政府の労働者弾圧に対する反発があった。

 犯人である難波大助は逮捕され大逆罪で死刑が執行される。

 第二次山本権兵衛内閣は虎ノ門事件の責任を取り総辞職。後任は清浦圭吾。