【特別高等警察とは】簡単にわかりやすく解説!!設置から廃止までの流れについて

 

戦前の日本社会において、治安維持法とともに悪名高いとされたのが、特別高等警察(通称・特高)と言われる警察制度です。

 

しばしば映画やドラマでも描かれるように、第二次世界大戦中には、公然と政府を批判した人たちが次々と特高に検挙されました。特高は言論弾圧の役割を担っていたのです。

 

しかし、特高という制度は、時代によってその役割が大きく変化しています。戦時中の特高の状況を見ただけでは、特高が何だったのかよく分かりません。

 

そこで、今回は『特別高等警察』について、その設置から廃止までの経緯を中心に、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

特別高等警察とは?

(1938年 警視庁特別高等部検閲課 出典:Wikipedia)

 

特別高等警察(通称・特高)とは、戦前の日本において、共産主義者をはじめとする反体制派を取り締まるために設置された警察の一部署のことです。

 

1910年の大逆事件を受けて、警視庁に特別高等課(特高課)が新設されたのが始まりで、その後全国の警察に特高課が順次設置されました。

 

特高課ははじめ主に共産主義者や無政府主義者を取り締まっていましたが、1925年の治安維持法制定、そして1937年の日中戦争勃発により、次第に一般市民の監視を強めるようになりました。

 

1945年の敗戦後、GHQの指導により、特高は廃止されました。

 

特別高等警察の成り立ち

 

そもそも「特別高等警察」は、なぜ単なる「高等警察」ではなく、「特別」という言葉が付けられているのでしょうか。

 

これには、特別高等警察という制度そのものの成り立ちが関係しています。

 

日本を含む近代国家の警察は、殺人、強盗、窃盗などの犯罪を取り締まる普通の警察の役割のほか、社会運動や思想を監視し、治安を維持する政治警察の役割も担ってきました。

 

こうした政治警察の役割は、ドイツやフランスでは「高等警察」と呼ばれ、日本でもその名称が取り入れられました。

 

しかし、日本においては、高等警察の主な任務である反体制派の取り締まりを専門に行う部署が高等警察から独立し、その権限を次第に拡大させていきました。

 

この部署が、従来の高等警察と区別され、「特別高等警察」と呼ばれるようになります。

 

特別高等警察の設置

①特別高等警察の独立

従来の高等警察から特別高等警察が独立したきっかけは、1910年に起こった大逆事件にあります。

 

大逆事件とは、19105月に全国各地で多数の社会主義者や無政府主義者が、明治天皇暗殺を計画したという理由で逮捕され、翌19111月に計26人が処刑された事件のことです。

 

このとき処刑された人の中に、幸徳秋水ら有名な活動家も含まれていたことから、この事件は社会全体に大きな衝撃を与えました。

 

 

こうした状況を受けて、警視庁は19118月、社会主義者や無政府主義者の監視を強化するため、特別高等課を設置しました。

 

これが以後の特高の原型になります。

 

②初期の特別高等課の活動

警視庁に設置された特高課は、特別高等係と検閲係という二つの係からなる小さな部署からスタートしました。

 

発足した年の時点では、特高課の人員は14人しかいませんでした。

 

当初の特高課の主な任務は、労働者のストライキの取り締まり出版物の検閲でした。

 

とはいっても、一般市民を広く監視するのではなく、主に特別要視察人名簿というブラックリストに載った社会主義者や無政府主義者を監視するといったものでした。

 

③特別高等課の広まり

警視庁に置かれた特高課は、1917年以降拡充され、同課内に労働係と内鮮高等係が新設されました。

 

1925年になると、特高課は90人を超える規模になっていました。

 

また、特高課は東京だけでなく、全国にも広まっていきます。

 

191210月に大阪府に設置されたほか、1923年には北海道、神奈川県、長野県、京都府、兵庫県、愛知県、山口県、福岡県、長崎県にも設置されました。

 

特別高等警察の変遷

 

特高は1920年代半ばから徐々にその権限を拡大させていきます。

 

特にそのきっかけとなったのが、1925年の治安維持法の制定と、1937年の日中戦争の勃発です。

 

①治安維持法の制定

1925年に制定された治安維持法は、国体の変革や私有財産制の撤廃を目指す結社(主に共産主義者)を取り締まるための法律でしたが、実際にこの法律にもとづいてそうした結社を取り締まったのが特高でした。

 

 

特高は治安維持法を根拠にして、共産主義者たちの取り締まりを強化していきます。

 

1928315日には、特高が全国で日本共産党員1500人を一斉に検挙する事件(三・一五事件)が起こり、「特高」という名称が一気に世間に知られるようになりました。

 

②特高の拡充

三・一五事件をきっかけとして、まだ特高課がなかった県にも同課が設置され、1928年中に全国すべての県に特高課が置かれるようになりました。

 

また、同じく1928年に治安維持法が改正され、共産党員だけでなく、その支持者や労働組合・農民組合の関係者、労働者運動の参加者にまで同法が適用されるようになりました。

 

これに合わせて、特高の取り締まり対象も拡大しました。

 

1931年になると、警視庁の特高課は部に昇格し、特別高等警察部(特高部)という名称になります。

 

同部内には特別高等課(特高課)、外事課、労働課、内鮮課、検閲課、調停課が置かれ、全体で250人規模の体制になりました。

 

1936年には、二・二六事件を受けて、特高部内の特高課がさらに二つに分かれて、特高第一課(左翼担当)と特高第二課(右翼担当)が設置されました。特高部全体の人員も370人を超える規模になりました。

 

 

このように、特高は1920年半ばから1930年半ばにかけて、着実にその権限と規模を拡大させていきました。

 

こうして特高は、共産主義だけでなく、自由主義やキリスト教などの宗教に対する取り締まりも強化していきます。

 

③日中戦争の勃発

1937年に日中戦争が勃発すると、特高は従来の活動に加えて、国内の反戦活動の取り締まりを行うようになります。

 

特に、戦争に反対していたキリスト教会などの宗教団体は、これ以降いっそう厳しく監視されました。

 

1941年のアジア・太平洋戦争勃発以降、戦争が長期化するにつれて、特高の監視はさらに厳しくなっていき、ついには共産主義や宗教団体とは全く関係ない一般市民の言動も監視対象になりました。

 

 

一般市民であったとしても、戦争反対を主張したり、政府や軍を批判したりした場合には、共産主義とこじつけられ、検挙されました。

 

こうして特高は戦時中の日本において、言論弾圧の機関として機能し続けました。

 

特別高等警察の廃止

 

特高は19458月の敗戦後も活動を続けていましたが、104日になると、連合国最高司令官総司令部(GHQが「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を出し、特高の解体を指示しました。

 

 

これを受けて、同月6日に内務省が特高課の廃止を決め、1314日には警察首脳部と特高関係の警察官(計4990人)の休職が発令され、特高は名実ともに解体されました。

 

まとめ

 特別高等警察(通称・特高)とは、戦前の日本において、共産主義者など反体制派を取り締まるために設置された警察の一部署のこと。

 1910年の大逆事件を受けて、警視庁が特別高等課を新設したのが始まり。

 その後、全国の警察に特高課が順次設置された。

 特高課ははじめ主に共産主義者や無政府主義者を取り締まっていた。

 ところが、1925年の治安維持法制定、1937年の日中戦争勃発を経て、特高の権限は次第に強化され、一般市民を厳しく監視するようになった。

 1945年の敗戦後、GHQの指導により、特高は廃止された。