唐の律令にならってつくられた大宝律令。
この大宝律令の制定により天皇中心の政治のしくみが整えられ、日本は律令国家としてスタートをきりました。
今回は、そんな重要なターニングポイントのひとつ『大宝律令』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
大宝律令とは
大宝律令とは、701年文武(もんむ)天皇の時代に制定された法律です。
日本に比べかなり進んでいた隣の国、唐(中国)の法律をお手本にして刑部親王 (おさかべしんのう)や藤原不比等 (ふじわらのふひと)らがまとめました。
「律」は刑法、「令」は行政法や民法など刑法以外の法律のことをさします。ちなみに大宝とは、701年5月3日~704年6月16日までの4年間使われた元号です。
大宝律令が制定されたことで、天皇を頂点とした法律による支配体制が整い、律令国家が本格的にスタートしました。
統一された法律があることで、都から遠い場所に住んでいる農民や豪族などすべての人を統治しやすくなるわけですね。
大宝律令を制定した理由&人物
(文武天皇 出典:Wikipedia)
大宝律令を制定した理由は、天皇に権力を集中させた律令国家をつくるため。そしてこの法律を制定したのは、持統天皇の孫である文武天皇です。
唐の律令を参考に大宝律令をとりまとめたのは、刑部親王と藤原不比等ら。
(藤原不比等 出典:Wikipedia)
刑部親王は壬申の乱で勝利した天武天皇の子ども、藤原不比等は中大兄皇子と乙巳の変(いっしのへん)を起こした中臣鎌足の子どもです。
大宝律令の制定までの経緯
(乙巳の変 出典:Wikipedia)
大宝律令が制定されたのは701年ですが、日本が天皇中心の律令国家を目指したその始まりは、55年前。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼした645年の乙巳の変です。
そもそもこの事件を起こした理由が天皇中心の律令国家を目指すためだったのです。
当時、中大兄皇子たちは、蘇我氏が権力を独占しているままでは、唐(中国)のような強い国が攻めてきたら日本は負けてしまうという危機感を募らせていました。
だからこそ、蘇我氏を権力の座から引きずりおろし、一刻も早く唐のように体制がしっかりとした天皇中心の律令国家をつくりたかったのです。
乙巳の変の翌年、646年孝徳天皇により大化の改新の詔が出され、土地も人民もぜんぶ天皇のものであるという公地公民制など、律令国家をつくるための方針が示されました。
この時示された方針を50年以上かけて実現したのが、701年大宝律令制定にはじまる律令国家でした。
言いかえれば、701年の大宝律令制定によって、大化の改新以来目指してきた天皇を頂点とした律令国家体制がやっと整ったわけです。
大宝律令の内容
①中央政治のしくみ
天皇をトップにした律令国家で、政治を行う役人になったのは豪族たちでした。その数およそ1万人。
その中で、地位の高い官職になれたのはわずか数百人ほどで、その人たちは貴族と呼ばれるようになりました。
では、律令国家がどんな組織だったのでしょうか?
中央(都)に置かれた役職は、「二官・八省・一台・五衛府(ごえふ)」。
二官は、「神祇官(じんぎかん)」と「 太政官 (だいじょうかん)」。
神祇官はその名の通り“神様関係”の儀式の担当、太政官は政治全般を取り仕切りました。
仕事が多岐にわたる太政官は、地位の高い順に、太政大臣、左大臣、右大臣、大納言の4つの役職がありました。国政の重要政務を行う最高幹部たちです。
この太政官たちの支配下に、政治を行う8つの部署「八省」が置かれました。
八省
✔ 中務省(なかつかさ)→最も権力のある部署で詔勅の作成を担当。天皇の命令(詔)の原案等をつくる仕事です。
✔ 式部省(しきぶ)→役人の教育や人事を担当
✔ 治部省(じぶ)→仏教関係や遣唐使、外交を担当
✔ 民部省(みんぶ)→戸籍の作成や税金の徴収など民政・租税を担当
✔ 兵部省(ひょうぶ)→軍事担当
✔ 刑部省(ぎょうぶ)→裁判や刑罰担当
✔ 大蔵省(おおくら)→財政担当
✔ 宮内省(くない)→現在に通じる、天皇ら皇族のいる宮中の担当
そして、「二官・八省・一台・五衛府」の『一台・五衛府』については・・・
✔ 一台→弾正台 (ぜんしょうだい)と呼ばれ、役人の不正を監視
✔ 五衛府→都の警備や防衛を担当
となっています。
②地方政治のしくみ
全国は畿内・七道の行政区に分けられました。
畿内は、天皇のいる奈良周辺の5つの国。現在でいうところの首都圏です。
大和国・山背国 (のち山城国)・摂津国・河内国・和泉国の5つの国に分けられ、五畿と呼ばれました。
畿内以外は、東山道・東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に分けられました。
さらに、各国は、「郡(ぐん)」、「 里(り)」に細かく区分。イメージは、国が都道府県、郡や里は市や区といったかんじ。
国のトップは「国司」。中央(都)から派遣された貴族が務め、中央に納める税の徴収などを行いました。
郡のトップは「郡司」。国司が地元の豪族から選んで任命。里のトップは「里長」と呼ばれました。
また、政治的に重要な地域には、特別の役職を置きました。
京都の京職(きょうしき)、九州の大宰府 (だざいふ)、摂津の摂津職(せっつしき)がありました。
大宝律令の税制
①税の種類
税には米や特産物のほか、労働や兵役もありました。
また、税を納める先は中央と地方に分けられていました。
地方(国)に納める税は、米を納める租(そ)や土木工事などで年間60日以下働く雑徭(ぞうよう)。
租は、戸籍をもとに6歳以上の男女に口分田を貸し与え、そこで収穫した米の約3%を税として納めさせました。これを班田収授法といいます。
中央(都)に納める税は、特産物を納める調 (ちょう)、布を納める庸(よう)がありました。庸は、都で年10日働く歳役(さいえき)に変えることもできました。
課税の対象は、租は男女ともでしたが、調・庸・雑徭の課税対象は男子のみでした。
②兵役
兵役は、主に軍団・衛士(えじ)・防人 (さきもり)の3種類。
軍団は各国の警備を10日間、 衛士は都の警備を1年、防人は大宰府で九州北部の警備を3年間課せられました。
防人が長い勤務なのは、九州北部は、中国や朝鮮に近く、軍事的に要注意な場所だったわけです。
兵役に就くのは、正丁(21~60歳の男性)3~4人に1人の割合。兵役に就いた人は、庸や雑徭を免除されましたが、現地まで交通費や食糧、衣類、武器などはすべて自費でした。
③その他の負担
春に強制的に稲を貸し付けられ、利息をつけて返さなければいけないという出挙(すいこ)、飢饉に備え、毎年一定量の粟などを納める義倉(ぎそう)もありました。
様々な税を納めなければならない農民たちの負担は計り知れないものがあったと思います。
まとめ
・大宝律令は、701年文武天皇の時代に制定された。
・唐の律令を手本にして刑部親王や藤原不比等らがまとめた。
・天皇中心の律令国家建設のために制定された。
・中央には、「二官・八省・一台・五衛府」が置かれた。
・地方には「国・郡・里」が置かれ、国には中央から貴族が国司として派遣された。
・全国を畿内・七道の行政区に分けた。
・税には、租・調・庸・雑徭・歳役などがあった。