平安時代に強い勢力を持った藤原家。
この藤原家の権力を強めたのが、摂関政治と呼ばれる政治でした。
今回はそんな藤原家の権力を強め、最盛期を築き上げるようになった原因である『摂関政治』についてわかりやすく解説していきます。
目次
摂関政治とは?
(藤原北家の家紋 出典:Wikipedia)
摂関政治とは、平安時代中期から行われた藤原北家の人達が摂政や関白に就任して天皇の代わりに政治を行うことを指します。
藤原北家は自分の家出身の女性を次々と天皇家に嫁がせて権力を拡大していきました。
摂政と関白ってどんな役職?
(大正天皇の摂関として就任した昭和天皇 出典:Wikipedia)
摂関政治について話す前にまずは摂政と関白とはどのような役職だったのかをみていきましょう。
摂政というのは幼い天皇や病弱な天皇が即位していた時に天皇に変わって政治を行う役職のことです。
この役職の歴史は意外に古く、日本初の女性天皇である推古天皇の時には聖徳太子が摂政に就任しており、また近代でも病弱でもあった大正天皇の時には当時皇太子であった昭和天皇が摂政として就任しています。
ちなみに今でも宮内庁の許可が下りれば普通に摂政を置くことができるのです。
一方で関白は成人した天皇が政治のことで困った時にサポートする役職のことです。
一番有名な関白はかの有名な豊臣秀吉。秀吉は1585年に関白に就任していますが、秀吉はこの関白の役割を利用して日本の政治を牛耳っていました。
このように摂政と関白はお互いに天皇に深く関わる重要な役職だったのです。
摂関政治の始まり
①ぶいぶいいわせ始める藤原北家
平安時代初期、日本の政治は中臣鎌足を始祖とする藤原家や橘家、そして長屋王をはじめとする皇族が対立していた時代でもありました。
この頃は藤原家はまだ藤原不比等が偉かったのみで権力がなかったのですね。
しかし、729年に長屋王の変が起こり、長屋王一族が暗殺されると時勢は一気に藤原家に傾いていきます。
藤原不比等の跡を継いだ藤原四兄弟とも呼ばれる人たちは自身の娘達を天皇の妃にすることで権力を確立。
一時期、藤原四兄弟が疫病で病死したり、道鏡というやばいお坊さんが孝謙天皇をたらしこんで藤原四兄弟の一派である藤原南家を滅ぼしかけるなど危ない場面もありましたが、藤原北家と藤原式家と呼ばれる2つの一族がなんとか立て直して光仁天皇という天皇を擁立し権力を強化。
さらに薬子の変で藤原式家が没落すると藤原北家の一人勝ちとなり、藤原冬嗣の時代になると天皇の信任を完璧に得ることに成功しました。
(藤原冬嗣 出典:Wikipedia)
これからの藤原家はこの冬嗣の家系で最盛期を迎えることになるのです。
②独裁化を果たす藤原北家
こうして藤原四兄弟の中で一番権力を持つようになった藤原北家。
さらに、藤原冬嗣の息子である藤原頼良の時になると自分の長女の息子が文徳天皇として即位し、自身は天皇のおじいさんとしての地位を手に入れます。
こうなるといくら天皇に関係ない藤原家も天皇と同じような地位を確立し、857年には良房は朝廷の中で一番偉い太政大臣に就任。
これに勢いづいた藤原北家はさらに866年に応天門の変に乗じて藤原家から見たらやっかいな一族を失脚させます。
また、皇族以外では史上初めてとなる摂政にも就任し、ついに摂関政治がスタートすることになったのです。
摂関政治の最盛期
(藤原基経 出典:Wikipedia)
①藤原基経の政治
良房の死後藤氏長者となった藤原基経は陽成天皇の時に外戚となり晴れて摂政に就任しました。
しかし、この陽成天皇がかなりの厄介者だったことや陽成天皇の妃である妹と対立したこともあって陽成天皇を無理矢理退位させ、代わりに従兄弟である光孝天皇を即位させ自身は関白となりました。
そしてついに天皇よりも藤原家の方が立場が上となる瞬間がやってきます。
光孝天皇の息子である宇多天皇が基経を関白に任命する際に阿衡という「良い位に入るけど使えない奴」という意味の単語を使ってしまったのです。
これに対して基経が大激怒。基経は全ての職務を放棄して朝廷は一気に停滞してしまいます。
これに慌てた宇多天皇は菅原道真に頼んでなんとか基経の怒りを鎮めることに成功しますが、この阿衡の紛議と呼ばれる事件によって天皇は藤原家に逆らえないというイメージがついてしまったのでした。
②昌泰の変
藤原基経の死後、藤原家は息子時平が継ぐことになるのですが、この頃の宇多天皇はというとなんとか藤原家の影響を削ごうと菅原道真を重用して関白を置かないいわゆる寛平の治と呼ばれる政治体制に移行します。
しかし、時平としても藤原家の勢力を削がれるのは嫌ですからクーデターを決行。
謀反の罪を道真につけて太宰権帥という太宰府のなんの権力のないポストに左遷して藤原家の勢力をなんとか復活させます。(昌泰の変)
しかし、時平はその後あっさり死去。道真の怨霊を恐れなければいけなくなりましたが、藤原家は弟の忠平に継がれ、朱雀天皇の摂政に就任しました。
③藤原道長の登場
藤原家の勢いは衰えることを知らず969年には藤原家の次に偉かった一族といってもおかしくなかった源氏の源高明が安和の変で失脚。
他族を排斥した藤原家はもはや独走状態となり冷泉天皇や円融天皇の時の外戚となりついに権力を牛耳ることになります。
そしてその中でも藤原家の最盛期と呼ばれる時代がやってきたのが藤原道長の時でした。
(藤原道長 出典:Wikipedia)
藤原道長は藤原兼家の五男でそれほど最初は偉くない位置でしたが、長男であった道隆が亡くなると道隆の息子伊周と道長の間で権力争いが起き、道長はこれに勝利。右大臣と藤氏長者に見事に就任しました。
そしてこの頃の天皇である一条天皇に道長の娘を嫁がせて見事に外戚となり、その後の三条天皇・後一条天皇の間に摂政となったのです。『この世とば 我が世と思う 望月の 欠けたることも なしと思えば』という歌は有名ですね。
ちなみに、この道長が嫁がせた娘の養育係となったのがあの『源氏物語』を執筆した紫式部でした。
そのため源氏物語の主人公である光源氏のモデルは道長とも言われています。
摂関政治の没落と終わり
(藤原頼通 出典:Wikipedia)
こうして最盛期を築き上げた藤原家でしたが、藤原道長の息子である頼通の代になるとこの藤原家の権力に陰りが見え始めていきます。
頼通は後朱雀天皇と後冷泉天皇の時に関白となりますが、1068年に後三条天皇が即位すると頼通は焦りの色を浮かべるようになりました。
それもそのはず、この後三条天皇は藤原家の外戚がいない天皇でしたからね。
藤原家の影響がない天皇の誕生は170年ぶりと呼ばれており、藤原家の顔色を伺わなくてもよくなった後三条天皇は延久の荘園整理令を発令させて藤原家を排斥。藤原家は完全に没落してしまい、関白と摂政の価値が一気に低下してしまいました。
こうして時代は藤原家による摂関政治から上皇が政治を行なっていくいわゆる院政の時代に突入していくことになったのでした。
まとめ
✔ 摂関政治とは平安時代に摂政と関白が天皇の代わりに政治をする体制のこと。
✔ 摂政は幼い天皇をサポートする役職、関白は成人した天皇をサポートする役職。
✔ 藤原家は自身の娘を天皇の妃として外戚として君臨した。
✔ 摂関政治は主に藤原北家が行い、藤原道長の代で最盛期を迎えた。
✔ 藤原家のあまり関係がない後三条天皇が即位すると摂関政治は終わりを迎えてその代わりに院政の時代に突入していった。