1669年アイヌの首長であるシャクシャインを中心とした大規模な蜂起が起こります。
この蜂起をシャクシャインの戦いと言います。
今回はこの蜂起が起きた背景、経過、その後について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
シャクシャインの戦いとは?
(シャクシャイン城址 出典:Wikipedia)
シャクシャインの戦いとは、1669年に起きた松前藩に対するアイヌの大規模な蜂起の事です。
この蜂起でアイヌは敗北。松前藩は蝦夷地のアイヌ交易において絶対的主導権を握ります。
シャクシャインの戦いが起きた背景
(アイヌ民族 出典:Wikipedia)
① シャクシャインの戦い以前の和人とアイヌの関わり
アイヌは古来より舟を使い東北地方全般と取引をしていました。(貨幣制度を持たないアイヌ民族は、物々交換での取引が主でした)
戦国時代はアイヌの地は蛎崎慶広が治めていました。関ヶ原以前に蛎崎慶広は家康に接近し、姓を松前と改めます。
徳川幕府が開かれると、松前慶広は松前藩の初代藩主となり、家康はアイヌとの交易は松前藩のみが行う事を決定します。
(松前慶広の木像 出典:Wikipedia)
全国の商人はアイヌの商品が欲しければ松前藩から仕入れる他はなく、アイヌも必要なものは松前藩から交換する他はなくなりました。
アイヌは鉄器、米、漆器等を作る技術はありません。これらの製品は長年の取引の結果、アイヌの生活に根付いており、取引なしでの生活は出来ない状態でした。
江戸時代初期の交易は松前藩アイヌ共に無理のない範囲のものでしたが、大商人が台頭すると、高くて遠い松前藩の産物は売れなくなります。
江戸時代初期の松前の交易は松前藩の家臣が行っていました(商場知行制)が、商人には敵いません。
少しでも利益を出そうと松前藩はアイヌとの取引を厳しいものに変えていきます。
1665年には松前藩は財政難から一方的に従来の米2斗(約30kg)=干鮭100本から米7升(約10.5kg)=干鮭100本と変更と、約3倍の値上げを行ないます。
取引に応じないと、子供を人質にすると松前藩は脅していました。
② アイヌ民族同士の争い
蝦夷地も広いので、アイヌも幾つかの部族に分かれており争いもありました。
東側に住む人びとはメナシクル、西側に住む人びとはシュムクルと呼ばれていました。
シャクシャインはメナシクル(東側)の民族です。
1646年頃からメナシクルとシュムクルはシベチャリ川(静内川)の猟銃権をめぐり争っていましたが、争いの中で1653年メナシクルの首長がシュムクルの首長に殺されます。
こうしてメナシクルの新たな首長は副首長だったシャクシャインになりました。
(シャクシャイン像 出典:Wikipedia)
シャクシャインは部族の中で、とりわけ背が高く、骨格がたくましかったそうです。幾多の戦場をかすり傷なく戦ったと伝えられています。
その後松前藩の仲介もあり争いは収まりますが、1665年に争いは再熱。松前藩が大幅な値上げをした頃です。値上げに伴い沢山の魚を用意する必要があり、猟銃権の獲得は部族の生き残りに繋がります。
その後も争いは続き、1668年にメナシクル達はシュムクルの首長を殺害。以前シュムクルがメナシクルの首長を殺害した報復です。
シュムクルの新しい首長ウタフは松前藩に武器を借りるよう要請しますが、松前藩は拒絶。その帰りにウタフは疱瘡で急死します。
急死のタイミングから、アイヌは松前藩がウタフを殺害したに違いないと考えました。
シャクシャインの戦いの始まりと経過
松前藩の圧政に耐えかねていた事もあり、対立していた部族はシャクシャインを中心にまとまり、1669年6月、2千もの軍勢になり、各地域で一斉蜂起が始まります。
突然の襲撃に対応できず、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺されました。
松前藩の要請に合わせ、秋田、南部、弘前の諸藩が蝦夷地まで応援に駆けつけています。
シャクシャインの軍勢は松前軍のいるクンヌイ(現長万部町)に7月末に到着。激しい戦闘が8月上旬まで続きます。
アイヌの武器は弓矢が主体ですが、松前藩は鉄砲を使用。幕府から支援もある為、武器の性能、物量共にアイヌ民族側が圧倒的に不利でした。
シャクシャイン達は自分達の住んでいた場所まで後退し、奥地で徹底抗戦を行う事を決めます。
戦いは松前藩、アイヌ共に早く決着をつけたかったのですが、戦いは長引きます。松前藩にとっては戦いが長引くと、幕府に取り潰しの口実を与えてしまいます。
アイヌも冬になると食料が尽きてしまう上、武器の量にも限りがあるので長期戦は不利でした。
11月、松前藩から和睦の話が持ち込まれます。シャクシャインは和睦に応じ、宴席に招かれます。
ところがこれは松前藩の罠であり、和睦の宴席中にシャクシャインは殺害されます。この時に殺害されたのは他の首長も含め74人もいたそうです。
翌日にはシャクシャインの住んでいた村も焼き払われます。
こうして指導者を失ったアイヌの勢力は急激に衰え、松前藩の勝利が確実になりました。
戦いそのものは4カ月程ですが、戦後処理の出兵は1672年で続きます。
シャクシャインの戦いのその後
①値上げの緩和
シャクシャインの戦い後、松前藩は米と鮭の交換レート等を改め、3倍から1.5倍程に改めます。
シャクシャイン達の死はわずかながら報われることになったのです。
②松前藩の蝦夷地における絶対的主導権の獲得
それ以上に過酷だったのは、松前藩が蝦夷地における絶対的主導権を握った事です。
アイヌから武器を取り上げ、7か条の起請文によって絶対服従を強いました。
アイヌの中には、戦いに参加していない中立的な立場の部族もいましたが、七ヵ条の起請文はアイヌ全てに及んでいました。
一応は共存関係にあったアイヌと松前藩は、完全に主従関係となります。
前述しましたが、江戸時代初期の松前の交易は松前藩の家臣が行っていました(商場知行制)が、近江商人等、資本をもった商人が台頭するにつれ、資本を持たず、商業の知識のない家臣ではアイヌ交易で商人に差をつけられるようになります。
シャクシャインの戦い後の18世紀初頭にはアイヌ経営を松前藩が要請した商人に任せるようになります(場所請負制)。
商人はより利益を求めるようになり、松前藩とアイヌとの主従関係はますます進んでいく事となります。
その後も蜂起は起こりますが、藩により鎮圧されています(クナシリ・メナシの戦い)。
③松前藩が秘密主義をとるようになる
松前藩はシャクシャインの戦い後、秘密主義をとるようになります。
時代は流れ、ロシア船が度々蝦夷地に出現するようになっても、松前藩は幕府には伝えていませんでした。
もめ事をおこして、取り潰しの機会を与えたら大変だと思ったからです。
後に幕府はロシアの脅威を考えるようになり、蝦夷地を幕府の直轄地する事を決定しますが、それはずっと先の話です。
まとめ
✔ シャクシャインの戦いとは1669年に起きた松前藩に対するアイヌの大規模な蜂起のこと。
✔ アイヌは江戸時代になると松前藩としか交易は認められず、徐々に不利な取引を強いられるようになる。
✔ アイヌはシャクシャインの戦いで大規模な蜂起を行うが、鎮圧される。
✔ 敗北後、アイヌは松前に絶対的服従を強いられる。
補足ですが、よく日本史のテストでコシャマインの戦いとシャクシャインの戦いが取り上げられますが、コシャマインの戦いは室町時代に起きた蜂起なので、混同しないようにしましょう。
更に補足で伝えるとクナシリ・メナシの戦いもありますが、こちらは1789年の出来事です。
順番的にはコシャマインの戦い→シャクシャインの戦い→クナシリ・メナシの戦いとなりますね。