抹茶にお菓子、と言ったら茶道を思い浮かべますよね。
現在も多くの人に親しまれている茶道ですが、その歴史はとても古いのです。
今回は、日本の伝統的な文化『茶道の歴史』についてわかりやすく解説していきます。
目次
茶道とは何か?
茶道は元々「茶湯」や「茶の湯」という名前だったと言われています。
お湯を沸かし、抹茶を用いてお茶をたて、客人に振る舞う行為、またその芸道を“茶道”といいます。
ここからは茶道が時代とともに変化していく様子、そして千利休について詳しく解説していきます。
茶道の歴史
①平安時代
平安時代、朝廷は唐(現在の中国)に遣唐使という使いを送って、唐の文化や制度を学ばせていました。
「お茶」は、このときの遣唐使や留学僧によって伝えられたと言われています。
平安初期に編纂された勅撰史書『日本後紀』には「中国からきた僧の永忠が、嵯峨天皇に近江の梵釈寺でお茶を奉った」という内容の記述があります。
この記述は日本のお茶に関する最初の記述だと言われています。
当時、お茶は貴重な品でした。
一部の貴族や僧侶にしか口にはできなかったのです。
当時のお茶は中国から伝わったものなので、烏龍茶のような団子状の発酵茶で、これを煎じて飲んだと考えられています。
この「茶の色」こそ、現在わたしたちが使う「茶色」の語源になったといいます。
②鎌倉・南北朝時代
(明菴栄西 出典:Wikipedia)
鎌倉時代、禅宗の一派である臨済宗の開祖栄西は、中国から持ち帰った茶の種を九州の土地に植え、京都の宇治にいた華厳宗の僧、明恵上人にも茶の種を分け与えました。
この時育てられた茶が、宇治茶の起源だといいます。
また、当時お茶は飲んで楽しむものというより、薬としての役割を持っていました。
栄西は、お酒が好きな当時の将軍源実朝に、薬としてのお茶と自らが著した日本で最初のお茶の専門書『喫茶養生記』を献上しました。
鎌倉末期から南北朝時代では、京都の寺院から茶の栽培が広がり、伊勢や駿河など各地で茶が栽培されるようになりました。
お茶を飲む文化は貴族から武士の階級にまで広がりました。
また、南北朝時代ではお茶を飲んで、その銘柄を当てる「闘茶」という賭け事が流行しました。
③室町・安土桃山時代
室町幕府第3代将軍足利義満は、京都で栄えた宇治の茶を守ろうと「宇治七名園」と呼ばれる茶園を宇治に作りました。
この宇治の茶への庇護は豊臣秀吉まで受け継がれ、高級茶としての宇治茶のブランドが形成されました。
15世紀後半までは、中国から輸入された茶器「唐物」を使って豪華な茶会をすることが大名の間で流行しました。
しかし、茶人の村田珠光は茶会で行われる賭け事や飲酒を禁止し、茶会における客人と亭主の精神交流を重視するよう説きました。
これが「わび茶」の源流に繋がったといいます。
村田珠光がわび茶を創り出し、これを受け継いだ武野紹鴎とその弟子の千利休らによって現在の茶道を指す「茶の湯」が安土桃山時代に完成されました。
④江戸時代
江戸時代初期では大名や豪商など、お金を持った人しか茶の湯を楽しむことはありませんでしたが、中期になると大名から町人まで多くの人が親しむようになりました。
たくさんの人が茶の湯を楽しむようになりましたが、新しく茶の湯を学ぶ人たちを誰かがまとめなくてはいけません。
そこで、現在も続く「家元制度」が確立しました。
茶の湯における三つの流派、表千家・裏千家・武者小路千家を総称して「三千家」と呼びます。
この三千家がたくさんの門弟をまとめたことで、全国各地で茶の湯が親しまれるようになりました。
一方で、一般の庶民には抹茶ではなく、茶葉を煎じた飲み物のお茶「煎茶」が普及していきました。
1738年(元文3)、煎茶の祖と呼ばれている永谷宗円という茶業家が、お湯で茶葉を蒸したあとに乾燥用の作業台で手もみする「宇治製法」という方法を考え付きます。
この製造方法によって、現在のお茶に近い、香りが良く、甘みがあって、鮮やかな薄緑色をした煎茶が生み出されたのです。
江戸幕府がアメリカと日米修好通商条約を結ぶと、鎖国をしていた日本は開国し、他国との貿易を開始します。
この貿易で、日本が輸出していたのは生糸や蚕の卵のほかに、お茶も多く輸出していたといいます。
⑤明治時代とその後
明治時代になると、茶道は「女子の教養」としての性格を持つようになっていきます。
これは、茶道を仕切っていた各流派が、明治に入り藩からの支援をもらえなくなり、財政的に困っていたなか、茶道が財界人の目に止まり、女子の教養として認められたからです。
私たちがイメージをもつ、綺麗な着物姿やお花が飾られた和室などの華やかな茶会の始まりはここからだと言われています。
その後、茶道はその伝承の研究なども進められ、ひとつの芸の道として広く知れ渡ることになりました。
茶道の文化は戦後、海外にも渡り、現在は世界中で広く親しまれています。
茶道の立役者「千利休」
(千利休 出典:Wikipedia)
“茶聖”とよばれている茶人、千利休。現在の茶道の文化が成り立つ立役者こそが千利休でしたが、彼はどのような人物だったのでしょうか。
①利休の生涯
千利休は和泉国・堺(現在の大阪)の商家に生まれました。
利休は若い頃から茶の湯を親しんでいて、17歳のときに茶人の武野紹鴎の弟子になります。
師匠とともに茶の湯を励みながら、堺にあるお寺で禅の修行をしますが、織田信長に茶頭(茶の湯の師匠)として雇われます。
本能寺の変で織田信長が明智光秀に敗れてからは、利休は信長の家臣だった豊臣秀吉に仕えることになります。
利休は秀吉からとても信頼されており、秀吉のために黄金の茶室をつくったり、秀吉がつくった城の庭作りを任されたりしました。
また、楽焼の茶碗や竹の花器を使ったりして、わび茶の完成に力を注ぎました。
しかし、利休は秀吉を怒らせてしまい、切腹を命じられてしまいます。
この命令に、利休の弟子たち「利休七哲」の吉田織部や細川忠興といった大名は、師匠の利休を助けようと努力しました。
利休がなぜ、秀吉に切腹を命じられるほど怒らせてしまったのかは、たくさんの説はありますが、未だに定まっていません。
結局、利休は秀吉の命令によって軍をあげた上杉景勝の軍勢によって殺されてしまいました。
享年70歳でした。
②利休と茶道
わび茶の完成者として名高い利休ですが、完成に至るまでの期間は意外に短く、利休が61歳のときから研究を始めたため、わずか10年でわび茶を完成させたのです。
それまでは先人に従って茶の湯を行っていました。
また、利休は「高価なものや名物は茶の湯にはいらない」として、禁欲的な茶の湯のあり方を説きました。
茶の湯の歴史を辿ると、唐物といった高価な名物の品を使っていましたが、利休はこれらを一切使わず、高価でなく、装飾などない質素な道具(利休道具)を使って茶の湯を行いました。
利休は茶室にもこだわりを見せていました。それまで茶の湯を行う茶室は、4畳半ほどの部屋が一番小さなものでしたが、利休は3畳や2畳ほどしかない小さな茶室を取り入れました。
また、北向きにつくることが普通だった茶室を、あえて南向きにつくり、窓を開けて差し込む光の変化を楽しんだのも、利休の茶の湯の特徴です。
これらの茶室の形式を「草庵茶室」といって、日本の建築に大きな影響を与えました。
まとめ
・お茶が遣唐使や留学僧によって平安時代に日本に伝えられた。
・南北朝時代ではお茶の銘柄を当てる「闘茶」という賭け事が流行した。
・村田珠光は「わび茶」の源流に繋がる客人と亭主の精神交流を重視するよう説いた。
・安土桃山時代に村田珠光のわび茶を受け継いだ武野紹鴎と千利休らによって「茶の湯」(茶道)が完成された。
・江戸時代に新しく茶の湯を学ぶ人たちをまとめるために、「家元制度」が確立した。
・明治時代になると、茶道は「女子の教養」としての性格を持つようになった。
・利休は禁欲的な茶の湯のあり方を説いた。
・利休は「草庵茶室」という茶室の形式を創り出した。