明治時代に作られた政党は数が多く、似たような名前の党も多いので混乱しがちです。
その中の一つ、立憲自由党は特に経緯が複雑で、ちゃんと整理しておかないとわけがわからなくなるかもしれません。
今回は、設立の経緯からその後までわかりやすく解説していきたいと思います。
目次
立憲自由党とは
立憲自由党とは、1890(明治23)年9月15日に設立された政党です。
実はこの前に1881年に設立された自由党があり、立憲自由党の前身となっています。さらに立憲自由党自体も翌1891(明治24)年には自由党に名前を戻しています。
なぜこんなことになったのか、順を追って見ていくことにしましょう。
立憲自由党の前史
①国会開設の勅諭
明治時代の初期、議会を開き、国民の手によって政治を進めていこうという自由民権運動が盛んになります。
そこで参議(さんぎ)の大隈重信はすぐに議会を開いてイギリス流の政党政治を行おうと考えますが、伊藤博文と対立して辞職させられてしまいます。
しかし政府は1881(明治14)年、国会開設の勅諭(ちょくゆ)が出され、約10年後の1990(明治23)年には国会を開くことを約束します。これを「明治十四年の政変」と言います。
②自由党の結成
(板垣退助 出典:Wikipedia)
さて、この国会開設の動きに乗って、自由民権運動のリーダー的な存在だった板垣退助が中心となって政党を作りました。
それが1881(明治14)年に設立された自由党で、板垣は総理に就任します。総理といっても総理大臣のことではなく、党首(党のトップ)のことです。
さらに、政府から追い出されて民間人になった大隈重信も立憲改進党という政党を作ります。
また政府を支持する側の勢力もこれらに対抗して立憲帝政党(りっけんていせいとう)を結成するなど、全国でさまざまな政党が作られました。
自由党結党の翌年である1881(明治15)年、板垣は刺客に刺されて負傷するという事件が起きました。
この時、板垣が叫んだとされる「板垣死すとも自由は死せず」という言葉はあまりにも有名です。(※なお、このセリフをそのまま叫んだかどうかについては諸説あります)
③自由党と立憲改進党の違い
自由党は板垣、立憲改進党は大隈が設立した政党です。
特徴としては、自由党はフランス流の進んだ自由主義を唱えたのに対し、立憲改進党はイギリス流の立憲主義をゆるやかに進めていこうと主張しました。
自由党は自由民権運動の中心的な存在となり、士族や地方の裕福な農家を主な支持層としましたが、やや過激なところがありました。
一方、立憲改進党はインテリ層や都市の商工業者に支持されていて、穏健派といった感じでした。
④自由党の解散
自由党は全国に組織を広げましたが、政府は新聞や集会を規制するなど、さまざまな手段でこれを取り締まろうとします。
こうした中で運動は過激さを増し、全国でさまざまな騒動を起こしました。
1884(明治17)年に自由党の急進派が県令(今でいう県知事)を暗殺しようとして未遂に終わった加波山事件(かばさんじけん)を起こします。
もはや混乱状態になった自由党はこの年にいったん解散することになりました。
立憲自由党の結党
①帝国議会の開設と立憲自由党結党
1890(明治23)年11月、ついに帝国議会(国会)が開設されます。これに先立って、7月には第1回衆議院議員総選挙が行われました。
その結果、民党(みんとう/政府に反対する民間の勢力)が吏党(りとう/政府系の勢力)に勝ち、過半数を獲得。
ただ、現在だったら過半数を獲得したほうが与党になって総理大臣を出すところですが、当時の大日本帝国憲法では総理大臣は天皇が任命することになっていて、民党が政権を握ったわけではありません。
民党の中で、もともと自由党にいた議員たちが中心となって結集し、立憲自由党が作られます。
衆議院では130名の議員が所属して第一党(一番多くの議員が所属している党)に。立憲改進党は41議席となりました。
②立憲自由党の政策
立憲自由党は「民力休養・政費削減」をスローガンとしました。
民力休養とは地租(ちそ)などの税金を削減して、ちょっと国民が楽に生活できるようにしようじゃないかということです。
政費削減とは国の無駄な予算を削ろうということで、主に増え続ける軍事費を減らすべきだと主張しました。
この「民力休養・政費削減」は立憲改進党も主張しており、民党の共通した政策でもありました。
③「立憲」の意味とは
ところで、立憲自由党や立憲改進党の「立憲」とはどういう意味なのでしょうか?
これは「憲法に基づいて政治を行う」という意味です。
国家というのは強い権力を持っていて、国民の生活を左右することができるものです。これを憲法というルールによって縛り、国民が議会に参加して国の好き勝手にさせないようにするのが立憲政治です。
特に権力分立(けんりょくぶんりつ)といって、政府や裁判所などの権力を独立させてお互いにけん制しあうような仕組みにしたのが、近代的な立憲主義の特徴となります。
④土佐派の裏切りと自由党への改称
さて、大日本帝国憲法では国の予算を決めるには帝国議会の賛成を得る必要があるとなっていて、民党が過半数を得ている状況でどうするかが問題となりました。
民党は予算の削減を要求していて、このままでは政府は政策を進めることができません。
そこでこの時の第1次山県有朋(やまがたありとも)内閣は立憲自由党の土佐(現在の高知県)出身議員に対して切り崩しの工作を仕掛けました。
立憲自由党土佐派の議員たちは政府が示した妥協案に賛成して、予算は議会の承認を得ることができました。
しかしこれによって土佐派は「自由倶楽部」という党を作り、立憲自由党は一時分裂状態になります。板垣退助も土佐出身であり、当初は自由倶楽部に参加していました。
そこで立憲自由党は板垣を総理として迎えることで党を再編し、党名もかつての自由党に戻しました。
自由党のその後
①板垣退助の入閣
その後も自由党はたびたび政府から選挙干渉などの妨害をされますが、議会では常に第一党をキープ。民党は過半数を維持し続けました。
そこで第2次伊藤博文内閣では自由党と妥協して予算を通過させます。
政府と対立していた自由党もしだいに政府との協調をはかるようになり、1895(明治28)年には板垣退助が内務大臣として入閣。自由党が政府に加わったのでした。
②憲政党の結成
その後の第2次松方正義(まつかたまさよし)内閣では立憲改進党の後身である進歩党(しんぽとう)と連立を組み、大隈重信が入閣。自由党は再び野党となります。
1898年に自由党は進歩党と合同して憲政党を結成。
板垣退助と大隈重信が手を結び、大隈が総理大臣となって日本初の政党内閣(いわゆる隈板内閣/わいはんないかく)を作りましたが、わずか4ヶ月ほどで憲政党は再び分裂してしまいました。
まとめ
・1881年に板垣退助が中心となって自由党を作るが1884年に解散。
・立憲自由党は1890年に旧自由党メンバーが集結して結党。
・土佐派の裏切りにより分裂する。
・立憲自由党は板垣退助を総理に迎えて自由党に改称。
・自由党は進歩党と合同して憲政党を結成する。