【奥羽越列藩同盟とは】わかりやすく解説!!なぜ結ばれた?同盟結成の背景・崩壊・その後

 

江戸城が無血開城して徳川幕府が終わりを迎えました。

 

しかし、東北の諸大名は旧幕府のために連合を組んであわよくば東北に独立した国を建てようとしていました。

 

一体なんでそんなことが起きたのでしょうか?

 

今回は連合を結成した背景を見ながら、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)について詳しく解説していきます。

 

奥羽越列藩同盟とは

(奥羽越列藩同盟旗 出典:Wikipedia

 

 

奥羽越列藩同盟とは、戊辰戦争中の1868年(明治元年)に東北や新潟の諸大名が新政府に対して対抗するために結成した同盟のことです。

 

この同盟が結成された背景など詳しく解説していきます。

 

朝敵となった二藩

江戸城が無血開城した後、諸大名が新政府に従うことになりました。

 

この当時は東北の諸大名も新政府の東北をまとめ上げる奥羽鎮撫総督(おううちんぶそうとく)というところに従っていました。

 

しかし、とある2つの大名は新政府から白い目で見られていました。会津藩庄内藩です。

 

まずはなんでこの二藩が白い目で見られていたのかをみてみましょう。

 

①会津藩の場合

(松平容保 出典:Wikipedia

 

 

会津藩の藩主である松平容保は京都の治安を守るための役職である京都守護職になっていました。

 

会津藩は当時、尊王攘夷運動で大暴れしていた長州藩を京都から追放したり(八月十八日の政変)長州藩をボコボコにしていました。(禁門の変)

 

 

さらに、当時京都守護職の部下である新選組が尊王攘夷派の志士を殺害する事件(池田屋事件)も起こすなど尊王攘夷派の志士を取り締まったりしていました。

 

 

しかし、第二次長州征伐で幕府軍が負けてから状況は一変します。

 

幕府は大政奉還によって消滅してしまい、京都守護職もなくなります。

 

さらに鳥羽伏見の戦いで幕府側が朝敵と認定された結果、自動的に幕府に従っていた会津藩も朝敵になってしまいました。

 

②庄内藩の場合

(武将 酒井忠次の肖像画 出典:Wikipedia

 

 

庄内藩は徳川四天王の一人である酒井忠次の子孫が代々治めてきました。

 

もちろん藩は幕府LOVEな状態でしたので幕府に従います。

 

庄内藩は鳥羽伏見の戦いの前に幕府にちょっかいをかけてきた薩摩藩の江戸藩邸を焼き払ってしまいます。

 

薩摩藩はこのことにキレて『はい、あんた朝廷の部下(薩摩藩)の家焼いたんだからあんた朝敵ね』みたいに庄内藩を朝敵としました。

 

このように二藩は朝敵となってしまい新政府から討伐されそうになりました。

 

連合結成の背景

 

 

東北の諸大名は新政府から二藩の討伐の命令を受けます。

 

しかし、東北の諸大名は二藩は新政府に従う姿勢を見せているのに討伐するのはおかしいのではないかと思い始めます。

 

諸大名の中でも特に影響力があった米沢藩と仙台藩は一応討伐のため会津藩境まで移動しますが結局会津藩のために兵を引きます。

 

しかし、新政府側は『何グズグズしているんだ!早く攻めろ!』と苛立ち催促のために新政府の官僚である世良修蔵という人を仙台に派遣します。

 

ところが、新政府の催促の手紙には『奥羽皆敵』と書いていました。つまり奥羽の藩は皆んな新政府の敵とされたのです。

 

これに激怒した仙台藩の人は世良修蔵を襲い打ち首にします。

 

そして、新政府に抗議するため奥羽の藩が連合しようとなり奥羽列藩同盟が結ばれます。

 

さらに長岡藩ら越後の諸大名も加わり奥羽越列藩同盟が結成されたのです。

 

東北に独立国!?北部政権構想

(宮城県 白石城)

 

 

奥羽越列藩同盟は新政府に対抗してさまざまな政策を行います。

 

奥羽越列藩同盟は白石城という城でさまざまな会議を行っていきます。

 

その内容は・・・

内容

 白河口から北にに新政府軍を入れないようにする。もし進入してきたら会津藩と仙台藩が対処する。

 越後は長岡藩が担当する。

 新潟港は列藩同盟の共同管理とする。

 新政府軍を排除したら南下して江戸城を押さえる。

 民衆を味方につけて諸外国も味方につける。

とあわよくば新政府を打倒するという野心が丸出しな内容になっていました。

 

奥羽越列藩同盟の戦い

奥羽越列藩同盟はついに新政府と戦争状態になります。

 

奥羽越列藩同盟は各地で行われていましたが今回は特に有名な3つの戦争について紹介します。

 

①北越戦争

(北越戦争 浮世絵図 出典:Wikipedia

 

 

北越戦争は長岡藩と新政府が戦った戦です。

 

当時、長岡藩は日米修好通商条約で開港された新潟港があり、奥羽越列藩同盟が武器弾薬を調達するための重要な拠点でした。

 

しかも長岡藩は当時の日本では珍しいアームストロング砲とガトリング砲などの最新鋭の武器を持っており新政府を圧倒していました。

 

しかし、新政府は圧倒的な軍勢を投入して長岡城を占領します。長岡藩も必死に抵抗しましたが結局新政府に投降しました。

 

②白河口の戦い

白河口は上に書いた通り奥羽越列藩同盟の入り口でした。奥羽越列藩同盟は迫ってくる新政府軍を撃退しようと待ち構えていました。

 

新政府軍は素晴らしい軍略で同盟軍を包囲して圧勝します。

 

しかし、同盟軍も負けてはおれず新政府軍にたびたび夜襲をかけて抵抗して新政府軍を弱らせて奪い取られていた白河城を奪還しようとしますが新政府軍は粘って耐えて同盟軍の攻撃は失敗に終わってしまいました。

 

そして同盟軍は会津若松城に撤退してこの戦いも新政府軍が勝利しました。

 

③会津戦争

(会津戦争 出典:Wikipedia

 

 

新政府軍はついに同盟の主格の一つである会津藩を総攻撃します。

 

会津藩は会津若松城に立てこもり新政府軍の攻撃に耐えますが、米沢藩や仙台藩が降伏して崩壊して降伏しました。

 

白虎隊の悲劇は有名ですね。

 

奥羽越列藩同盟の崩壊

会津戦争の後同盟の諸大名はどんどん新政府に降伏します。

 

中には秋田藩や弘前藩みたいに同盟を裏切って新政府側につく藩も現れます。

 

そして、最後まで抵抗していた庄内藩が降伏して奥羽越列藩同盟は完全に崩壊しました。

 

奥羽越列藩同盟のその後

戦後、同盟に参加した諸大名のほとんどが領地を没収されてしまいます。

 

特に仙台藩は60万石近くあった石高が三分の一の26万石に減らされてしまいます。

 

また会津藩は会津の地をぶんどられて青森の斗南というところに飛ばされてしまいました。

 

しかし、新政府は同盟に参加した諸大名は結局大名としての地位を無くさず、廃藩置県後に華族として生き残ることができました。

 

 

まとめ

・奥羽越列藩同盟は新政府にするために結成された

・奥羽越列藩同盟は東北に独立国家を作ろうとしていた。

・しかし、同盟軍は新政府軍に負けてしまい会津戦争の後崩壊した。

・同盟に参加した諸大名は改易されることはなく、廃藩置県後に華族となっていった。