今回は、甲申事変について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
甲申事変とは
(独立党のリーダー 金玉均 出典:Wikipedia)
甲申事変とは、1884年(明治17年)12月24日に朝鮮で起こった独立党によるクーデターのことを言います。
ここからは壬午軍乱から甲申事変までの経緯について解説していきます。
壬午軍乱から甲申事変までの経緯
①壬午軍乱について
朝鮮はこの時代、清国の属国のようになっていました。
冊封体制(さくほうたいせい)と言って、清国に朝鮮が貢物を持って行き、完全に清国の位が上であるという扱いを朝鮮は受けていました。
要するに、朝鮮の「親分的」立場が清国というわけです。
ところが朝鮮の中で「清国より日本についていこう」という動きが出てきました。当時の日本は勢いがあったので、朝鮮はそう感じたのでしょう。
朝鮮政府内で日本派と清国派が対立を始めます。
親日派の閔妃、親清派の大院君に分かれ、大院君が閔妃派の人間や日本大使館に火を放ったり日本人を襲ったりしました。これが壬午軍乱です。
②独立党が設立された理由
もともと親日派だった閔妃でしたが、この事件により日本から多額の賠償金を要求され、清国とのつながりを深めます。
これに親日派に賛同していた者たちから不満が出ました。そこで革命派の金玉均と朴泳考が立ち上がり独立党を結成しました。独立党は、親日派の人が立ち上げたものだったのです。
(革命派の金玉均)
③甲申事変とは?~清仏戦争とクーデター~
1884年、フランスがベトナムを攻め、ベトナムは清国に助けを求めました。これがきっかけで清国とフランスの間で戦争が始まったのです。
結局、清国はフランスに負けてしまいます。
ベトナムはフランスの保護国になってしまったのです。この戦争と清国が負けたことが朝鮮国内、特に独立党を刺激しました。
「朝鮮もベトナムと同じ立場の国。清国はベトナムを守れなかった。日本についた方がやはり良いのではないか」こう考えたのです。
そして金玉均を中心にクーデター(武力によって政権をうばうこと)を起こし、閔妃を殺害しました。これが、甲事事変です。
天津条約
①甲申事変をもっとくわしく
革命派の金玉均と朴泳考は、日本公使の竹添進一郎と手を組みクーデター(武力によって政権をうばうこと)を企てました。
清国はフランスと戦争中で、クーデター(武力によって政権をうばうこと)を起こすなら今と考えたのです。
1884年12月、日本軍を動かし王宮を占領。閔氏一族の要人を殺害。独立党と日本軍が実権を握ったのでした。
しかし、すぐに閔氏側の清国軍が反撃、袁世凱の率いる部隊がクーデター(武力によって政権をうばうこと)を起こした部隊を攻撃します。
日本軍はすぐに撤退したため、このクーデター(武力によって政権をうばうこと)は3日で終わりました。金玉均・朴泳孝たちは日本に亡命(自分の国から逃げて別の国に住むこと)しました。
②天津条約の締結
1885年、日本と清国の間で朝鮮に関する条約が結ばれました。これが天津条約です。
日本の伊藤博文、清国の李鴻章の会談により成立しました。
日本は伊藤博文を特命全権大使に任命し、ほかに西郷 従道・井上毅など22名の大型使節団を率いて北京入りしました。
清国は交渉の場所を天津に設け、北洋交渉大臣の李鴻章に出席させました。
天津条約の内容
✔ 朝鮮からの両軍とも撤廃すること(4カ月以内に完全撤兵すること)。
✔ 両国とも朝鮮に軍事教官を派遣しないこと。
✔ 朝鮮に出兵するときは、両国とも事前通告をすること。
これにより、この時点での日本と清国の衝突は防ぐことができました。
脱亜論
①脱亜論の内容
脱亜論とは、署名なしで新聞・時事新報に掲載された日本外交についての個人の主張です。
脱亜論と言えば福沢諭吉です。
いろいろな説ありましたが、福沢諭吉が投稿したと判明したようです。要約すると次のようなことが書かれています。
清国と朝鮮の発展を日本が待つ必要はない。
近くの国だからといって特別扱いをせずに欧米諸国と同じ方法で清国と朝鮮と関係を作れば良い。近代化できない清国や朝鮮と日本が仲良くしていると欧米諸国から日本も同じようにみられてしまう。
清国や朝鮮の近代化しない考え方の勢力と仲良くする気はない。
②福沢諭吉について
福沢諭吉は私立教育機関、慶応義塾を創設した人です。現在の1万円札の人です。
福沢諭吉は現在の大分県、中津藩の武士の家に生まれました。
緒方洪庵が開いていた「適塾」で蘭学(オランダの学問)を学びます。そこで才を認められた中津藩の指示により江戸で塾を開きます。この塾が発展して慶應義塾になりました。
江戸幕府からも学問の才能を認められ、日本使節団が渡米・渡欧する時は福沢諭吉も同行しました。
江戸幕府が倒れ、明治維新があってからは、教育に専念しました。
福沢諭吉はいずれは、清国と戦争するべきだと言う考えを早くから持っていました。
朝鮮は自分の国を自分で侵略から守るためには清国の支配下にいるべきではなく、朝鮮の近代化を遅らせている清国と考えたからです
まとめ
・1880年代朝鮮は清国の属国(支配された国)になっていた。
・清国は冊封体制(朝鮮が清国に貢物を持っていく制度のこと)を朝鮮に強いていた。
・朝鮮の中で「清国より日本」と考える人が出てくる。
・親日派の閔妃と親清派の大院君が対立。
・親清派の大院君が閔妃派の人間や日本人を襲い、日本大使館に火を放つ。(これを壬午軍乱という)
・親日派の閔妃が壬午軍乱を境に清国派になったことに親日派から不満が出始める。
・革命派の金玉均と朴泳考が独立党設立。
・1884年清仏戦争勃発。清国の属国のベトナムがフランスに攻めこまれ、清国に助けを求めるがフランスに負けてしまう。これにより、ベトナムはフランスの保護国になる。
・ベトナムが清国から守られなかったのを見た独立党の金玉均は、日本に守ってもらうべきという考えを強めクーデターを起こす(甲申事変)。
・革命派の金玉均と朴泳考は日本公使の竹添進一郎と手を組んだ。
・1884年12月日本軍と独立党が王宮占領。すぐに閔妃側の清国軍が反撃。
・袁世凱の率いる部隊がクーデターをおさえる。3日で終わる。
・金玉均と朴泳考たちは日本に亡命する。
・1885年日本の伊藤博文と清国の李鴻章が朝鮮に関する条約・天津条約を結ぶ。
・脱亜論は福沢諭吉が新聞時事新報に掲載された。