日本史を学習する上ではさまざまな法律や制度なども覚えなければいけない時もあります。
法律や制度はその名前だけではなく、さらにその内容まで覚えなければいけないというのだから大変です。
今回はその法律の中でも江戸時代に作られた朝廷のための法律『禁中並公家諸法度』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
禁中並公家諸法度とは
禁中並公家諸法度とは1615年(慶長20年)に朝廷中心に制定された法律のことです。
この法律が出される前から幕府は朝廷への干渉を強めており、この法律によって江戸時代の朝廷と幕府の立場が決まりました。
ちなみに禁中とは天皇のことです。つまり天皇と公家の諸法度と思ったらわかりやすいです。
戦国時代から江戸時代初期までの朝廷
①戦国時代初期の朝廷
日本における天皇の立場は時代と共に変わっています。
その中でも戦国時代と江戸時代の天皇の立場は日本の歴史の中でも特に権力が無かったと言っても過言ではありませんでした。
戦国時代に入ると朝廷の財政は破綻していたも同然でした。
その破綻ぶりは天皇の即位の儀式が30年以上も延期となったほどです。
朝廷はそんな財政状況をなんとかするために官位を戦国大名に売ってお金を稼ぐようになります。
官位というのはいわばステータスみたいなもので、農民上がりの戦国大名や家臣から戦国大名になった人たちはこの官位が欲しくて欲しくてたまらなかったのです。
この朝廷の作戦はうまくいき、ひとまずは財政はなんとか立て直すことができましたが、これによって朝廷の権威はダダ下がりとなり、信長の時代になるとただ利用されるだけの存在に成り果てていました。
②秀吉の時代と江戸時代初期の朝廷
信長が本能寺の変で亡くなり、秀吉の時代が到来すると朝廷は秀吉に関白に就任させます。
この時の天皇は後陽成天皇という人で、この人は大名と朝廷のバランスを保とうと必死でした。
(後陽成天皇 出典:Wikipedia)
しかし、秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いによって徳川家康が幕府を開くと朝廷はあっさり豊臣家を見限り、家康に尽くすようになりました。
朝廷の大スキャンダルと幕府の介入
①猪熊事件の発生
1609年、幕府の介入が強まってきたこの頃朝廷を揺るがす大スキャンダルが発覚しました。
そのスキャンダルというのが凄まじいもので、そもそも猪熊教利というのは今でいうところのジャニーズレベルのイケメンの公家が朝廷の女中の間で憧れの的となっていました。
しかし、この猪熊教利という男。呆れるほどの女癖の悪さで知られており浮気なんて当たり前。しまいには京都中の女性をたぶらかしたりしていました。
これに対して後陽成天皇は大激怒。猪熊を京都から追放して二度と京都に入れないようにしました。
しかし、やっぱり一度憧れの的になった男のことを女性たちが諦められるはずはなく、いつのまにか猪熊は京都に戻っていました。
猪熊は京都に戻ってくるやいなや朝廷の名門の家生まれの女性たちと関係を結びまくり朝廷の風紀が乱れまくっていました。
こんな朝廷の現状を知った後陽成天皇はもうそれはそれは言葉では表せないほどの怒り模様で、猪熊とその関係を結んだ女中を全員死刑にすべしと命令したそうです。
②幕府の介入
幕府は猪熊事件の報告を聞くやいなやすぐに朝廷の調査に当たります。
しかし、驚くことにこの事件に関わっていた人が予想外に多く、さらにその人たちが全員名門生まれの人だったため処罰をするのが難しいと判断します。
結局、幕府は朝廷に対して猪熊教利は処刑としましたが、女中たちは処刑ではなく、その一つ下の刑である流刑という形をとりました。
後陽成天皇はこの幕府の介入を知って朝廷の現状に絶望感を抱き始め、ついには天皇をやめるとまで宣言しました。
幕府は幕府でこれ以上朝廷に好き勝手にやらせていたらまたこのような事件が起こると思い始め、公家専用の法律を作ることを決意するようになりました。
禁中並公家諸法度の内容
(禁中並公家諸法度 画像引用元)
禁中並公家諸法度は金地院崇伝というお坊さんが考えたものでこの人は武家諸法度の制定にも関わっている重要人物です。
しっかりと覚えておきましょう。
(金地院崇伝 出典:Wikipedia)
さて、肝心の禁中並公家諸法度は17条からなっており、内容は・・・
禁中並公家諸法度の内容
✔ 天皇は学問だけに打ち込むこと
✔ 摂政と関白を任命するときは慎重に決めるべし
✔ 摂政か関白に任命された人は高齢になろうともどんなことがあろうともやめてはいけない
✔ 公家の官位と武士の官位は別物として、さらに幕府の許可なしに大名に官位を与えてはいけない
✔ 改元は中国のものを参考にして、さらになるべく良いものを選ぶべし
✔ 紫衣(紫色の袈裟で僧侶のトップしか着れない)の着用を許可するときはなるべく権威のある僧侶に与えるべし
✔ 上人(僧侶に与えられる最高の称号)を許される住職は良く選別するべし
というものでした。
最大のチェックポイントは一番上の天皇は学問に打ち込むべしというところ。
ここでいう学問は天皇としての教養のことなのですが、禁中並公家諸法度が出されるまでは公家の立場を示している法律はあっても、天皇の立場を示している法律はありませんでした。
禁中並公家諸法度では天皇の立場をきっちりと明記しています。
しかし、その天皇の立場は幕府に逆らえないようなものでした。
その下の摂政と関白は慎重に選ぶべしというのは簡単に言えば『簡単に摂関家(公家のトップとも言える名門)を摂政や関白にするな。』という幕府の圧力だと思えばいいです。
紫衣のところは天皇がむやみやたらに紫衣を与えないようにするものでした。しかしこの部分がのちに紫衣事件という新たな事件につながることになります。
禁中並公家諸法度が制定されたその後
この法律は江戸幕府が終わるまでの間大まかな部分は一切変えられることはありませんでした。
この法律によって朝廷の権力は無くなったものと同然となってしまいます。
朝廷は禁裏御料という土地を貰いましたが、その石高は3万石にいくかどうかというものでそこら辺の中堅の大名よりも石高が低いという悲しい現実が待ち受けていました。
公家はもっと酷く公家のトップである摂関家でも2500石でした。これはいい身分の旗本と同じぐらいの石高です。
朝廷はこれから幕府のいいなりになるしか道がなくなり、民衆は天皇とはどんな人なのか知らない人も出てくるようになります。
また天皇が絶大な権力を持つようになるには明治維新が起きるまで待つ必要がありました。
まとめ
・禁中並公家諸法度は天皇と公家を対象にしたルールのこと。
・これによって朝廷の権力はほとんどないような状態となってしまった。
・天皇の石高は3万石と中堅の大名よりも少なかった。