豊臣秀吉が1588年に発令した「海賊取締令(海賊停止令)」。
豊臣秀吉は、海賊衆に対し・・・
①豊臣氏に従い、大名となる
②豊臣政権の大名の家臣となる
③武装を放棄し、百姓になる
この3つを迫りました。
この海賊取締令(海賊停止令)によって海賊衆は日本史から姿を消すこととなりました。
では一体、海賊取締令(海賊停止令)とはどのような内容であったのでしょうか?
今回は海賊取締令(海賊停止令)の意義や内容について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
海賊取締令(海賊停止令)の意味とは?
(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)
海賊取締令(海賊停止令)とは、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が倭寇に対し「①豊臣氏に従い、大名となる」「②豊臣政権の大名の家臣となる」「③武装を放棄し、百姓になる」。
この3つを迫った政策です。
海賊禁止令、海賊鎮圧令などと呼ばれることもあります。
倭寇とは南北朝時代から戦国時代にかけて活動していた海賊衆のことをさします。
海賊衆を指す倭寇は前期倭寇、後期倭寇の2つに分けられることがあります。
勘合貿易の警固も行うも、略奪行為も行っていた「前期倭寇」
(倭寇による襲撃 出典:Wikipedia)
前期倭寇とは鎌倉時代末から室町時代初期にかけて海沿いに住み、海上における支配権、いわば縄張りを持っていた豪族のことをさします。
海上に縄張りを持つ豪族たちは組織で活動していたことが多かったため「海賊衆」と呼ばれていました。
主に高麗(朝鮮)の沿岸、中国沿岸、また対馬や壱岐・五島列島、瀬戸内海が活動地域であったとされています。
多くの人が海賊は人や商船を襲い略奪行為をするといったイメージを持つように、南北朝時代以降の海賊衆も人や商船を襲うといったことはありました。
しかし、大名や商家の商船を警護するといった依頼なども受けていたとされています。
つまり、海賊衆は大名や商船の警護を行う一方で、商船を襲うといった行為も行っていたのです。
1401年から1549年まで行われた勘合貿易(日明貿易)に際して室町幕府は、海沿いに住む海賊衆に海沿いの警固を担当させるなど行っていました。
そのため、海賊衆は「警固衆」と呼ばれることもあったとされています。
室町幕府から依頼され海沿いの警固を行っていた海賊衆は「警固料」と呼ばれる金銭を受け取っていました。
室町幕府に依頼され、海賊衆は勘合貿易に際し警固を行っていましたが、室町時代後期に入り室町幕府の権威が低下してくると、各地にいる海賊衆たちは大名に従わず大名と対等な関係として振舞い、地位を確立するようになりました。
大名の下で水軍として活動した「後期倭寇」
(安宅船 出典:Wikipedia)
勘合貿易が終わった1549年以降の海賊衆は後期倭寇に分類されています。
室町幕府の権威が低下し、大名と対等な地位を確立していた海賊衆でしたが、戦国時代後期に入ると中には有力大名に従い、水軍として活躍する者もいました。
水軍とは船に乗り戦闘する兵士たちのことをさします。
これまで大名に従わず、大名と対等な関係として振舞ってきた海賊衆でしたが、1570年10月から1580年9月にかけて行われた石山合戦(浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦)における第二次木津川口の戦いを最後に、海賊衆の自立した活動は目立たなくなります。
刀狩令と同時期に海賊取締令(海賊停止令)が発令される
織田信長が1582年6月2日に本能寺の変で亡くなると、その後、天下を統一したのは豊臣秀吉でした。
1588年、豊臣秀吉は豊臣政権の政策の1つである刀狩令を発令します。
刀狩令とは百姓から刀や槍、鉄砲といった武器を取り上げるもので、百姓が一揆を起こさないよう防止を目的に発令されたものでした。
つまり、豊臣秀吉は豊臣政権に危害を加えそうな百姓を排除しようとしたのです。
それと同時に、豊臣秀吉は海賊取締令(海賊停止令)も発令します。
海賊取締令(海賊停止令)の内容
刀狩令と同時に発令された海賊取締令(海賊停止令)。
この政策は刀狩令と同じく、海賊衆の一揆を阻止するためのものでした。
つまり、百姓と同じく豊臣政権に危害を加える可能性があると考えられた海賊衆を排除するために発令したのです。
豊臣秀吉が発令した海賊取締令(海賊停止令)は・・・
- 豊臣氏に従い、大名となる
- 豊臣政権の大名の家臣となる
- 武装を放棄し、百姓になる
この3つを海賊衆に迫ったものでした。
またこの3つを海賊衆に迫ると同時に、これまで海賊衆に与えられていた「警固料」も廃止します。
大名と対等な関係を持ち、自立した地位を確立していた海賊衆の存在を豊臣秀吉は否定したのです。
豊臣秀吉が発令した海賊取締令(海賊停止令)によって海賊衆は全国から姿を消すこととなりました。
村上水軍の活躍
(瀬戸内海 出典:Wikipedia)
日本史の中で最も有名なのは村上水軍ではないでしょうか?
村上水軍とは南北朝時代から瀬戸内海で活動していた海賊衆です。
中国地方と四国地方の間にある海上を活動拠点としていました。
南北朝時代から瀬戸内海の制海権を持っていた村上水軍は能島村上家、因島村上家、来島村上家に分けられ、大名と対等な地位を確立し活動を行っていました。
しかし、戦国時代に入ると因島村上氏が毛利氏に従い、因島村上氏が毛利氏が支援する河野氏に従うようになります。
能島村上氏は海賊取締令(海賊停止令)が発令されるまでどの大名にも従うことはありませんでした。
村上水軍は1555年に行われた厳島の戦い(毛利元就と陶晴賢の戦い)や1561年に行われた豊前簑島合戦、1567年から始まった伊予出兵、1576年に行われた第一次木津川口の戦い(毛利氏と織田氏の戦い)などで活躍を見せました。
織田信長亡き後、天下統一を果たした豊臣秀吉。
この頃になると来島村上氏は早くから豊臣秀吉に従うようになっていたため、独立大名とされていました。
一方で能島村上氏は小早川氏の家臣、因島村上氏は毛利氏の家臣となりました。
しかし1588年、豊臣秀吉によって海賊取締令(海賊停止令)が出されると、これまでのように活動することは不可能となり、村上水軍は海賊衆からの撤退を余儀なくされました。
まとめ
✔ 倭寇とは南北朝時代から戦国時代にかけて活動していた海賊衆のことをさす。
✔ 南北朝時代から戦国時代にかけて活動していた海賊衆は前期倭寇、勘合貿易終了後の戦国期に活動していた海賊衆は後期倭寇に分類される。
✔ 海賊衆は商船を襲い略奪行為を行う一方で、室町幕府から依頼され勘合貿易の警固などを行っていた。
✔ 室町時代後期以降、海賊衆は大名と対等な関係として地位を確立する。
✔ 大名と対等な関係として地位を確立していた海賊衆だったものの、豊臣秀吉が発令した海賊取締令(海賊停止令)によって、その地位は否定されることとなる。
✔ 海賊取締令(海賊停止令)は刀狩令と同時期に発令された。
✔ 豊臣秀吉が発令した海賊取締令(海賊停止令)は①豊臣氏に従い、大名となる②豊臣政権の大名の家臣となる③武装を放棄し、百姓になる。この3つを海賊衆に迫ったものだった。
✔ 海賊取締令(海賊停止令)によって海賊衆は全国から消した。
✔ 水軍として有名な村上水軍も豊臣秀吉の発令した海賊取締令(海賊停止令)によって海賊衆からの撤退を余儀なくされた。