今回は、『維新の三傑(さんけつ)』『維新の十傑(じっけつ)』についてです。
選定の理由やメンバーは誰なのか?わかりやすく解説していきます。
目次
維新の三傑、維新の十傑とは
(幕末のはじまり。1854年 黒船来航 出典:Wikipedia)
幕末から明治維新にかけてのおよそ25年間は、日本史の中でも激しく揺れ動いた時代でした。
その中でひときわ強い光を放った男たちがいました。人々は彼らを『維新の三傑』とよびました。
その3人に7人追加し、『維新の十傑』といわれた人々もいました。幕末・維新で特に活躍した人々というくらいの意味ですね。
ここからは誰が・どんな理由で選ばれたのか、くわしく解説していきます。
維新の三傑はだれのこと?
幕末から明治維新にかけて活躍した人物を維新の三傑や十傑として評価することは、三傑の死後間もない1878年(明治11年)ころから行われました。
三傑として挙げられたのは長州藩の木戸孝允、薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通の3人です。
なぜ、この3人が選ばれることが多かったのでしょうか?
維新の三傑が選ばれた理由
最も大きな理由は、3人が討幕の中心的な役割を果たした長州藩・薩摩藩を動かしたからです。
明治時代の人々は、幕末から維新にかけての時代を生き抜いた人々に尊敬の念を持っていました。
三傑を一人ずつ見てみよう
①木戸孝允(桂小五郎)
(木戸孝允 出典:Wikipedia)
木戸孝允(きどたかよし)は高杉晋作とともに長州藩を討幕の方針でまとめ上げ、明治維新まで藩を率いました。
高杉は戊辰戦争前に病死したので自然と木戸が長州藩の代表とみなされました。明治維新後も、五箇条の御誓文や版籍奉還・廃藩置県で重要な役割を果たしました。
②西郷隆盛
(西郷隆盛 出典:Wikipedia)
西郷隆盛(さいごうたかもり)は、薩摩藩の尊王攘夷運動や討幕運動の中心人物でした。
薩長連合や王政復古の大号令などで大活躍し、江戸城の無血開城を成功させました。明治維新後は廃藩置県を実行しましたが、征韓論で大久保利通らと対立して政府を去りました。
とても人望のある人で、明治天皇も彼の人柄を深く信用したといいます。次第に追い詰められていく士族たちを見捨てることができず、西南戦争では薩摩士族とともに政府と戦い、敗れて自害しました。
③大久保利通
(大久保利通 出典:Wikipedia)
大久保利通(おおくぼとしみち)は、薩摩藩の討幕運動のもう一人の中心人物でした。
薩摩藩の実権を握っていた島津久光のもとで実力を認められて出世しました。
西郷とともに薩摩藩の討幕運動を推し進め、王政復古の大号令や小御所会議では公家の岩倉具視とともに徳川慶喜を追い詰めるため政治的な根回しを行いました。
明治維新後は岩倉使節団の一員として海外を訪問し、帰国後に征韓論を唱える西郷と対立し、西南戦争では西郷ら故郷の士族たちと戦う道を選びました。
西南戦争の翌年、不平士族に襲われて暗殺されました。
維新の十傑はだれ?
①小松帯刀(薩摩藩)
(小松帯刀 出典:Wikipedia)
小松帯刀(こまつたてわき)は、薩摩藩の家老。
西郷や大久保などの下級藩士を積極的に重要な役職につけて活躍できる場を作りました。また、岩倉具視らとともに藩の意見を討幕でまとめていきました。
彼の存在なくしては西郷や大久保も活躍できなかったかもしれません。明治維新後、まもなく病死しました。
②大村益次郎(長州藩)
(大村益次郎 出典:Wikipedia)
大村益次郎(おおむらますじろう)は、長州藩で軍隊の近代化を行いました。
第二次長州征討では島根県方面の部隊を指揮し、最新の武器と彼の巧みな指揮で幕府軍を撃破します。
戊辰戦争では、上野の寛永寺に立てこもる旧幕府の彰義隊をたった1日で壊滅させました。
明治維新後は、徴兵制を実施して近代的な日本陸軍を作ろうとしましたが、これに反発した不平士族によって暗殺されることになります。大村の考えは山県有朋らに引き継がれました。
③前原一誠(長州藩)
(前原一誠 出典:Wikipedia)
前原一誠(まえばらいっせい)は、高杉晋作と一緒に、「幕府に従うべきだ」という藩内の勢力と戦い勝利しました。
戊辰戦争では長岡藩などと戦った北越戦争で軍を指揮し、明治維新後は木戸孝允と対立して山口県に帰郷しました。
九州で神風連の乱と秋月の乱がおきると、萩で不平士族を集めて反乱を起こします(萩の乱)。反乱は失敗し、前原は処刑されました。
④広沢真臣(長州藩)
(広沢真臣 出典:Wikipedia)
広沢真臣(ひろさわさねおみ)は、長州藩の指導者の一人。
木戸孝允とともに長州藩を討幕でまとめ上げました。大久保利通と組んで討幕の密勅を出させたのは広沢です。
新政府でも木戸と並ぶ存在で版籍奉還などで活躍しましたが暗殺されました。多くの容疑者が逮捕されましたが、結局、証拠不十分で犯人を特定することはできませんでした。
⑤江藤新平(佐賀藩)
(江藤新平 出典:Wikipedia)
江藤新平(えとうしんぺい)は、佐賀藩の武士でしたが、尊王攘夷運動にのめりこんで永蟄居(無期限に自室で謹慎すること)にされてしまいました。
王政復古後に復帰します。江戸城が無血開城された後に、首都を江戸に移すことを提案します。
彰義隊と戦った上野戦争では大村益次郎とともに活躍しました。明治維新後は司法卿として司法関係を整備します。不正には厳しく、長州出身の井上馨や山県有朋を追求し、一時的に辞職にまで追い込みました。
征韓論では西郷隆盛といっしょに政府をやめました。故郷の佐賀に戻った江藤は不平士族とともに反乱を起こし(佐賀の乱)、乱は大久保利通の手により鎮圧されました。大久保とはとても仲が悪く、江藤は処刑されさらし首にされました。
⑥横井小楠(肥後藩)
(横井小楠 出典:Wikipedia)
横井小楠(よこいしょうなん)は思想家・政治家です。
1858年に越前藩の政治顧問となり、殖産興業・富国強兵などをめざす政治改革をおこないました。
しかし、いったんは政治的な争いに敗れて失脚します。その間、西洋文明を分析しながら新しい日本のありかたを考え、当時の人たちに大きな影響を与えました。そして、明治維新後に暗殺されました。
⑦岩倉具視(公家)
(岩倉具視 出典:Wikipedia)
岩倉具視(いわくらともみ)は、中級貴族。
最初は朝廷と幕府を仲良くさせる公武合体を目指しましたが、のちに大久保利通などと組んで討幕を目指しました。
王政復古の大号令や小御所会議では主導的な立場になり、徳川慶喜を追い詰めていきました。
明治維新後は、岩倉使節団の団長として欧米を回ります。西
郷らの征韓論には反対で、のちに士族に命を狙われますが、堀に飛び込んで助かりました。
坂本龍馬は、なぜ三傑や十傑とみなされなかったの?
薩長同盟をまとめ、船中八策を提案するなど坂本龍馬の活躍は現代ではよく知られています。
しかし、明治時代の評価はそれほど高くありませんでした。その理由は二つ考えられます。
選ばれなかった理由
(1)龍馬の存在があまり知られていなかった
(2)龍馬は維新三傑や十傑と違い藩を動かしたわけではなかった
特に、(2)が大きかったようです。龍馬は土佐藩出身でしたが、直接、土佐藩主山内豊信を動かすことはできません。
藩主にかけあったのは後藤象二郎でした。
交渉人としての評価は高かったかもしれませんが、藩を動かすことができなかった点で三傑や十傑と大きな差があったといえるでしょう。
まとめ
・維新の三傑は木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通の3人。
・三傑が選ばれたのは、薩摩藩や長州藩を動かし維新を成し遂げたから!
・三傑も十傑、幕末から明治維新にかけて活躍した人物。
・坂本龍馬は十傑に入れないのが当時の人々の評価。