【もし戊辰戦争で旧幕府軍が勝っていたら】明治維新はなかった!?その後の日本はどうなった?徹底予想!

 

日本の大きな転換期と言えばやはり、明治維新ですね!

 

明治維新が無ければ今の日本はなかったと言えましょう。

 

未だ江戸時代が続き、身分社会が残り自由に恋愛する事も自由に仕事を選ぶ事も許されない人生かもしれません。

 

そんな明治維新が起きたのは、戊辰戦争により旧幕府軍が敗退したためでした。

 

もし戊辰戦争で旧幕府軍が勝利していたら日本はどうなっていたのでしょうか?

 

今回は、もし戊辰戦争で旧幕府軍が勝っていたら?をテーマにその後の日本を徹底予想していきたいと思います。

 

戊辰戦争とは?

(上野戦争の図 出典:Wikipedia

 

それまでは日本国内で揉め事はあったものの、それなりに穏やかに過ごしていた日本でしたが、長らく鎖国していた日本に黒船が来航すると少しずつ歯車が壊れ始めて来ました。

 

すでにこの頃、弱体化しつつあった幕府は鎖国を貫くこともできず、結局諸外国の言いなり状態でした。しかし、そこまで弱体幕府ではなく、天皇を中心とした政治を行おうという意見が日に日に強まっていました。

 

そして今まで外様として蔑ろにされて来た薩摩藩や長州藩土佐藩は、自分達も政に携わる事を求めます。

 

結局は、皆誰しも自分が権力を握りたい訳ですが、幕府とて簡単に権力者の座を明け渡したくありません。

 

しかし当時、政治を司っていたのは将軍でしたが、一応将軍はあくまでも天皇から任命される役職に過ぎず、この国で一番偉いのはやはり天皇です。

 

例え将軍と言えども、天皇に逆らう事は許されません。

 

そこで、天皇を中心として政を行い、政治の場に立ちたい薩摩藩を初めとした「新政府軍」と権力者の座を奪われる訳にもいかない「幕府軍」とで始まったのが、戊辰戦争です。

 

ですが、圧倒的な最新兵力、かつ天皇に歯向かったことで朝敵とされた旧幕府軍には、勝ち目はなく、結局敗北となりここに明治維新と流れ行くのでした。

 

 

まずは史実を確認しよう!戊辰戦争が起こった背景とその後

(戊辰戦争中の薩摩藩の藩士 出典:Wikipedia)

戊辰戦争勃発

自分達が政治の実権を握りたい薩長勢は、将軍より上の天皇を味方に付ける事で幕府に対抗します。

 

しかし、時の将軍徳川慶喜は何と自ら大政奉還を行い、将軍の座を朝廷に返納する事で、事実上徳川幕府は喪失しました。

 

王政復古の大号令を行い、薩長勢の主張通り天皇を中心とした政治が始まった訳ですね。

 

 

ですが、旧幕府側は徳川家も前将軍という事で、政治の場に立たせるよう要求します。

 

もちろん薩長がそれを許す訳はなく、お互いの主張は平行線のままですから、結局戦へと突入するのでした。

 

世間の大名達も皆意見は、真っ二つです。

 

将軍を朝廷に返納した以上、もう幕府は存在しませんが、当然元将軍家である徳川家に忠義を尽くすか…。しかし、この国で一番偉いのは天皇ですから、天皇側に付くべきなのか…

 

そこで新政府軍は、何と錦の御旗を掲げると言う秘策に出ます。

 

錦の御旗は、天皇が朝敵討伐に渡す物でこれを掲げた新政府軍は、天皇の命を受けた官軍であると主張しました。

 

それに矢を向ける旧幕府は、元将軍と言えど賊軍となり、旧幕府側に付いた諸藩は、賊軍と言う汚名を着せられる事になりました。

 

鳥羽・伏見の戦いで敗北した慶喜は、事もあろうに陣をはる大阪城から、部下を置き去りにして江戸に逃げ帰ると言う醜態をさらすのでした

 

慶喜自身はその後謹慎、戦う意思を捨てると、共に慶喜と戦っていた会津藩主の松平容保も新政府への恭順を示します。

 

しかし、旧幕府の象徴を許す訳にはいきまませんから、特に会津の恭順は断固として認められる物ではありませんでした。

 

③奥羽越列藩同盟の結成

恭順を認められない会津藩や庄内藩では、苛立ちが隠せません。

 

近隣の東北諸藩も会津藩と新政府の仲立ちをしようとするも、東北諸藩も新政府から睨まれ始めてしまいます。

 

すると東北諸藩は新政府に対抗姿勢を見せ、大藩である仙台藩主・伊達慶邦を盟主に東北31藩が立ち上がりました。

 

 

しかし、31藩も纏まっていた訳ではなく、秘密裏に秋田藩などが新政府軍と繋がっていたりと各々見据える物は違っていました。

 

段々と同盟も崩れ行き、大藩である筈の仙台藩米沢藩が新政府軍の最新兵器には、敵わないと気付くと降伏せざるを得ませんでした。

 

それでも最後まで会津藩は牙を向けますが、最新兵器に敵う訳も無く、最後には会津も降伏するのでした。

 

③その後の日本

戊辰戦争によって新政府軍が勝つと急速に文明開化が進み、失われていた遅れを取るべく積極的に海外の文化を取り入れました。

 

 

衣類は着物から洋服へ切り替わり、次第に鉄道が普及し明治天皇が東京へと移り住み、新しい日本へと着々と進みました。

 

そして新政府の面々の多くは、薩摩や長州のメンバーで華族制度が発足すると、かつてならば、下級武士であった彼等が華族に列せられ、この国の政を司るようになりました。

 

会津藩は、徳川政権下では親藩大名として優位な立場でしたが、戊辰戦争後は辛うじて家名存続は許されたものの、3万石への大幅な減額をされました。

 

その上、新たに与えられた地は農業に向く地では無く、極貧生活を強いられ、事実上の嫌がらせと言わざるを得ません。

 

ですが、もしこの時旧幕府軍が一連の戦いに勝っていたらどうでしょう?

 

また違う日本の未来があったかもしれません。

 

もし戊辰戦争で旧幕府軍が勝っていたら?明治維新はなかった?

 

(蝦夷へ向かう旧幕府軍 出典:Wikipedia)

①薩長の出番無し

元々明治維新での新政府の要人に多く参与したのは、新政府軍の中心的存在薩摩藩や長州藩でした。

 

彼らは、徳川政権下では外様大名として扱われ、幕府の要職に付く事も許されず、遠い領地から参勤交代に応じるなど、言わば仲間外れ状態でした。

 

当然旧幕府軍が勝てば徳川政権が続く訳ですから、徳川方に刃を向けた以上改易対象となるでしょう。

 

特に薩摩や長州に関しては、関ヶ原の戦いの時も豊臣に付いた言わば宿敵ですから、今度こそ断絶は免れません。

 

そして旧幕府軍の会津藩を始めとした諸藩は、石高が倍増され今後も優遇間違いなしです。

 

負ければお咎めは免れないと分かっている薩長も、家名存続の為には負ける訳にはいきません。

 

薩長がこの戦で勝ち得たのは、海外の最新兵器を取り入れてこそですが、徳川政権に戻れば封建的な手法に逆戻りですから、明治維新には、遠退くかもしれません。

 

鎖国に逆戻り?

徳川幕府の政策の一つが鎖国です。

 

 

徳川政権に戻るということは鎖国逆戻りするため、文明開化が起こるのにまた何十年と違ったかもしれません。

 

限られた国々としか交遊しない事で、良くも悪くも日本の文化の発展は遅れた面も有りますが、日本の固有の文化を守り抜く事も出来ました。

 

しかし、日本が鎖国している間に日本は浦島太郎状態です。

 

各国の産業や医療は限り無く発展してしまい、軍事力の差は相当で大国に迫られたら拒む事が出来ないのは、幕府も分かっていました。

 

ただ、時の天皇は大の異人嫌いでしたし、開国か鎖国か世論の意見も真っ二つで、それを纏める力も当時の幕府にはありませんでした。

 

仮に旧幕府が勝ったとしても、開国の波には勝てなかったでしょう。

 

いずれ明治維新のような文明開化は、遅かれ早かれ徳川政権になっても遣って来るでしょうが、こんなにも急激にではなく、段階を踏んでという形になるかもしれません。

 

新政府は急激な方向転換を行い、今までの考え方はあたかも負の歴史ともいう感じで明治維新へと突き進みましたが、封建的な考えが強い幕府ではそうはいかないでしょう。

 

しかし、どの道、他国の文化や思想が流入して来れば、武士道を貫く幕藩体制は近い内終わりが来ると言わざるを得ず、明治維新は時間の問題とも言えましょう。

 

日本分断?

実は、奥羽越列藩同盟では、日本を二分して新たな体制を作ろうと言う案が出ていました。

 

新政府軍は、従来の天皇の元で西日本を中心に形成し、東日本側は列藩会議に参加して東北諸藩と行動を共にしていた輪王寺宮を東武皇帝として、東北朝廷を形成しようとしていました。

 

実際、彼はこの奥羽越列藩同盟の盟主になる事を打診されていますが、出家の身である事から軍事的な介入は拒否したものの、政治面での盟主になる事は快諾しています。

 

輪王寺宮は当時即位したばかりの明治天皇の叔父で、結局新政府軍が擁立する明治天皇もまだ幼く事実上政治的な決定権は持っていませんでした。

 

結局、薩長も自らの言いなりになる明治天皇を祭り上げ、自分達の思い通りの政治を行いたいと考えていた訳です。

 

しかし、そんな国家体制を新政府が認める訳も無く、現実性に欠けていると言わざるを得ません。

 

もし国が二分していたら、西日本は文明開化で洋服を着て、東日本では未だに着物にちょんまげもありえたかもしれません。

 

 

少なからず、今我々の生活が有るのは正しく明治維新のおかげです。

 

明治維新により日本は発展したとも言えますが、それは日本古来の文化とのお別れとも言うべきかもしれませんね。

 

まとめ

まとめ

 

✔ 鎖国をして国内で穏やかに過ごしていたが黒船によって情勢が変わる。

 

✔ 権威が落ちつつあった幕府は、世論を纏める事が出来ず事もあろうに朝敵とされた。

 

✔ 東北諸藩は、奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍と戦う。

 

✔ もし旧幕府が勝てば薩摩や長州が政治の面舞台に出る事はなく、明治維新は遠退いた。

 

✔ もし旧幕府が勝てば鎖国に舞い戻る可能性が有るが、明治維新は時間の問題。

 

✔ もし旧幕府が勝てば、日本は二分され、文明開化と封建国家になっていたかもしれない。