今回は、室町時代に栄えた『東山文化』について、特徴や代表的なものなどわかりやすく解説していきます。
目次
東山文化とは
東山文化とは、室町時代中期に起こった文化のことです。
戦乱の時代の影響を受けながら発展し、現代にも通じる文化が生まれました。
東山文化は8代将軍足利義政が作った文化
(足利義政 出典:Wikipedia)
東山文化とは1400年代後半、足利義政が将軍の時代の文化のことを言い、東山文化という名前の由来も義政が建てた東山山荘から来ています。
そこでまず足利義政のことを紹介していきます。
足利義政とは将軍という立場でしたが権力はあまり強くなく、政治家としては優秀ではない人物でした。
決断力に欠け、政治に対するやる気も失ってしまったことから後継者争いが巻き起こります。
これが応仁の乱です。応仁の乱は室町時代最大の戦であり、1467年から十年以上も続きました。
歴史の授業などでも無能な将軍として伝えられることが多い義政ですが、文化人としては非常に優秀な人物でした。
将軍の地位を譲った義政は1483年に東山山荘に移り住みます。
義政自身も絵画や茶道などに取り組み、また多くの文化人を東山山荘に集め支援しました。
この義政の支援のおかげで東山文化は発展していくのです。
東山文化の特徴
東山文化の特徴として公家(貴族)・武士・宗教それぞれの文化が融合したこと、庶民も含めて様々な身分の人や地方に文化が広がったことが挙げられます。
これは足利義政が身分などに関係なく実力のある文化人を集めたこと、応仁の乱の影響で京都を出ていく人が増えたことが理由です。
またもう一つの大きな特徴として簡素なものに美しさを見出すという考え方があります。
これは禅宗という宗教が大きく影響していました。
禅宗とは仏教の一種で質素な生活を好み、厳しい決まりごともありました。
室町時代には禅宗を信仰する武士も多く、また応仁の乱の影響で宗教を頼るものが増えていました。
東山文化の絵画
(四季山水図 出典:Wikipedia)
①水墨画
東山文化の絵画は大きく2種類に分けられます。水墨画と大和絵です。
どちらも東山文化が始まる前からありましたが、この時代に大きく発展しました。
まず水墨画では雪舟がその代表です。
中国や日本各地で絵画の技術を学び、それを生かして日本独自の水墨画を作り上げました。
雪舟の作品は6点が国宝となっており、代表的なものとしては「四季山水図巻」「秋冬山水図」「天橋立図」が挙げられます。
②大和絵
(大和絵"源氏物語絵巻" 出典:Wikipedia)
次に大和絵とは平安時代からある日本風の絵のことを指します。
貴族や武士・寺などに向けて絵を描いた土佐派の土佐光信、水墨画と大和絵を融合させた狩野正信、狩野元信親子が有名です。
狩野正信は狩野派の初代と言われており、この狩野派とは室町時代から明治時代まで400年以上にわたって日本の絵画の中心となる派閥です。
土佐光信の代表作として「清水寺縁起」、狩野正信の代表作として「周茂叔愛蓮図」、狩野元信の代表作として「大仙院花鳥図」が挙げられます。
東山文化の茶道
日本の伝統文化である茶道はこの東山文化で基礎が整えられました。
それ以前から茶道は流行し始めていましたが、村田珠光の登場で現在につながる侘茶が誕生します。
それまで貴族や武士は高価な器や道具を使用していましたが、侘茶の精神は質素な作りの道具を使用し純粋にお茶を楽しむことを目的としていました。
この考え方も禅宗の影響を受けており、江戸時代や後の茶道の発展につながっていくのです。
東山文化の能楽
東山文化は室町時代中期のものですが、室町時代の初期には観阿弥・世阿弥親子により能楽が発展しました。
能というのは日本の伝統芸能でストーリーがあり、歌や伴奏に合わせて踊りを踊りながら話が進むものです。
世阿弥は能の曲を多く残し、また「風姿花伝」という芸術論を記した書物も書きました。
晩年はその人気に陰りも見えましたが世阿弥の後を継ぐ者もあり、東山文化やさらにその先の時代にも能楽は続いていきます。
東山文化の建築様式
(銀閣寺 出典:Wikipedia)
①東山山荘
東山文化の建築の代表としては東山山荘が挙げられます。
足利義政によって建てられたこの山荘ですが、銀閣という名前のほうが有名かもしれません。
室町時代の3代将軍である足利義満は金閣寺というきらびやかな寺を建て、それにならって義政は東山山荘の中に銀閣を建てたのです。
銀閣も東山文化の特徴である簡素な作りとなっており、外観も金閣と比べると地味なものになっています。
銀閣には書院造という建築様式が用いられました。
書院造とそれ以前の建築様式には大きな違いがあり、現在の建築様式の基本がそこで出来上がりました。
そこで書院造についても少し解説します。
②書院造
(書院造 出典:Wikipedia)
書院造はそれまでの建物の造りと違い、生活がしやすい造りとなっていること、来客が来た際に対応しやすいことが特徴です。
それまでは部屋の仕切りはなく垂れ布で部屋を分けていたのに対し、書院造では襖や障子が誕生し、数部屋に分けることが可能になりました。
また畳もそれまでは部屋の一部分に敷かれていたものが部屋全体に敷き詰められるようになり、吹き抜けとなっていた建物に天井が張られるようになります。
また現在の和風の住宅にも見られる床の間や棚も生まれました。
この書院造が発展し、玄関や雨戸、縁側などが後に誕生していきます。
③東山文化の庭園
(枯山水 出典:Wikipedia)
この時代の庭園は枯山水という造りが特徴となっています。
枯山水とは水のない庭のことで石や砂などを使って水面などの自然の風景を再現するものです。
代表的なものとして竜安寺石庭や大徳寺大仙院庭園などが挙げられます。
東山文化の文学
東山文化の文学として挙げられるのは御伽草子と連歌です。
御伽草子は現在のおとぎ話のことを指し、それまで主流だった長編の物語と比較すると短編で文章も簡単になっているのが特徴です。
連歌とは短歌の遊びの一種です。短歌は5-7-5-7-7の文字を使って歌を詠む遊びで、連歌はこの5-7-5の部分を1人が詠み、その続きの7-7を別の者が考えるというものです。
その連歌を集めた代表的な歌集として宗祇が編集した「新撰菟玖波集」や「水無瀬三吟百韻」があります。
このように東山文化は足利義政の支援を受けながら現在の伝統芸能、建築、茶道などあらゆる文化の基礎となるものが生まれた文化だったのです。
まとめ
・東山文化は足利義政の時代に発展した簡素な文化で禅宗の影響も大きく受けている。
・東山文化の絵画には雪舟を代表とする水墨画と狩野正信・元信を代表とする大和絵がある。
・東山文化の茶道は村田珠光によって発展した。
・東山文化の建築には枯山水・書院造が用いられ、代表的なものとして東山山荘の銀閣がある。
・東山文化の文学として御伽草子・連歌がある。