【平城京とは】特徴をわかりやすく解説!!遷移理由や天皇・場所・時代・建てた人など

 

奈良時代の都、平城京。

 

「なんと(710年)立派な平城京」などの語呂合わせで覚えている方も多いと思います。

 

1998年に「古都奈良の文化財」として、東大寺とともに世界遺産に登録されたほか、2010年には「平城遷都1300年」のイベントも開かれるなど、近年ますます注目が集まっています。

 

今回は、このホットな古都『平城京』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

平城京とは?

(平城京「再建された大極殿」 出典:Wikipedia

 

 

平城京とは、元明天皇が710年に飛鳥地方の藤原京から遷都した都です。

 

現在の奈良市・大和郡山市にまたがる場所に造られました。

 

造営当時の平城京は、南北約4.8km、東西約4.3kmの規模で、東西南北に走る大路によって整然と区画されていました。これは当時の唐の都長安をモデルにしたと言われています。

 

桓武天皇784年に長岡京に遷都するまでの74年間、平城京が政治の中心地でしたが、平安時代に入るとたちまち荒廃してしまい、東大寺興福寺の門前町が残るのみとなりました。

 

平城京の遷移の理由

 

飛鳥時代から奈良時代にかけて、何度も遷都が行われましたが、正確な理由はよく分かっていません。

 

特に、なぜ694年に遷都したばかりだった藤原京をたった16年間で捨てて、平城京に遷都したかははっきりしません。

 

これまでいくつかの推測がなされてきました。

 

推測されている理由

 

藤原京では交通が不便で、大きくなった中央政府にとって適さなくなったから。

 

藤原京の造営が修正に修正を重ねて行き詰ったため、仕切り直しをする必要があったから。

 

飢饉や疫病を防ぐ呪術的な力を引き出すために遷都が必要だったから。

 

藤原不比等の一族が権力を高めるため、都を飛鳥地方から離す必要があったから。

 

 

しかし、どの説も決定的な証拠がありません。

 

数少ない史料の中で最も重要なものが、元明天皇が608年に出した「遷都の詔」です。

 

そこには、元明天皇自身は遷都を急ぐ必要はないと考えていたにもかかわらず、まわりの貴族たちが遷都は必要だと主張していたことが書かれています。どうもこのあたりが遷都の理由と関わっているようです。

 

遷都が必要だと主張した貴族たちの中には、藤原不比等がいました。

 

 

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(藤原不比等 出典:Wikipedia)

 

 

この人物は、藤原鎌足の息子で、元明天皇の息子であった文武天皇に自分の娘を嫁がせることで、権力を拡大しました。

 

一説によれば、不比等が平城京への遷都を主張したのは、都を飛鳥地方から離れた場所に移すことで、自分たちの権力を高めるためだとされます。

 

また、近年注目されている説では、遣唐使を再開したことの影響が指摘されています。

 

遣唐使は663年の白村江の戦いで唐と関係が悪化してから途切れていましたが、702年に再開されます。

 

30年ぶりに唐の都長安を見た遣唐使の一行は、藤原京とあまりに違うことに衝撃を受け、外国の使節に舐められないように、新たに国際標準の最先端の都市として平城京を造ることを進言したのではないかと考えられています。

 

おそらくこうした複数の理由が重なって、平城京への遷都に至ったのでしょう。

 

平城京の特徴

平城京 条坊図 出典:Wikipedia

 

 

平城京は、唐の都長安をモデルに設計され、中央を南北に走る朱雀大路によって、左京右京に分けられていました。

 

北部の中央には平城宮と呼ばれる建物があり、ここに天皇が住む内裏、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙がありました。

 

左京と右京はそれぞれ東西南北に走る大路によって、さらに東西4坊・南北9条に区画されていました。

 

左京には、現在の奈良市街に当たる外京と呼ばれる張り出した区画があり、ここにあった興福寺元興寺は今も残っています。「奈良の大仏」で有名な東大寺は、外京のさらに外側にありました。

 

 

(東大寺盧舎那仏像 出典:Wikipedia

 

 

平城京全体の規模は、南北約4.8km、東西約4.3kmで、藤原京の3倍の広さがあったと推定されています。

 

①時代背景と天皇

(天明天皇 出典:Wikipedia)

 

 

藤原京から平城京への遷都を決めたのは、第43代の元明天皇でした。

 

元明天皇は天智天皇の第4皇女で、第42代の文武天皇の母でもありました。

 

ところが、707年に文武天皇が崩御し、その息子である子首皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼少であったことから、前例を破って、元明天皇が即位しました。

 

これには、文武天皇の后の父であった藤原不比等の強力なバックアップがあったようです。

 

こうした皇位継承の事情も、平城京への遷都と関わっていると考えられています。

 

②平城京の場所

(平城宮跡歴史公園「平城宮跡」 出典:Wikipedia)

 

 

平城京があった場所は、奈良盆地の北端で、今の奈良市・大和郡山市にまたがる一画です。

 

JR奈良駅から徒歩30分程度の位置にあり、この一画は現在「平城宮跡歴史公園」という国営公園になっています。

 

ですが、なぜこの場所に平城京が造られたのでしょうか。ポイントは3つあります。

 

場所の選定理由

 

1つ目は、中国の陰陽思想にもとづいて土地を選んだこと。

陰陽思想によれば、北に山、南に池、東に川、西に道がある平城京の土地は、最良の土地でした。

 

2つ目は、交通の要であったこと。

平城京の北にある奈良山を越えれば、木津川から淀川を通って、大阪湾にある難波やその先の西国に行くことができます。また、宇治川をさかのぼれば、琵琶湖に到達することができます。都には全国各地から物資を集める必要があったので、交通の便が良いことは重要でした。

 

3つ目は、藤原京との位置関係。

藤原京は平城京の南側に位置する飛鳥地方にあります。

飛鳥地方には、672年から694年まで続いた飛鳥浄御原宮や、それ以後710年まで続いた藤原京があったため、古くからの貴族が勢力をもっていた地域でもありました。

平城京への遷都を進言した藤原不比等は、こうした勢力の影響を削ぐために、飛鳥地方から離れた場所に都を移そうとしたと考えられます。

 

 

③平城京を建てた人

では、これほど整然とした平城京は、いったいどのような人たちが造営したのでしょうか。

 

当時の日本は律令制が採用されており、人民には租・庸・調と呼ばれる税が課せられていました。

 

平城京を造るための土木工事に必要な労働者も、この税の一環として各地から集められました。

 

平城京を造るためには、平城宮をはじめとする様々な建物を建てたり、東西南北に走る大路を造ったりと、大規模な土木工事が必要です。平城宮を整地するだけで、1日に300016000人の労働者が必要とされると推定する説もありますが、正確な労働者の数は分かっていません。

 

ですが、その労働はとても厳しいものだったようで、耐えかねて逃げ出した人々が多かったようです。逃亡した人は故郷に戻っても、捕まって処罰されてしまうので、帰ることもできず、そのまま浮浪人になりました。

 

平城京のその後

(桓武天皇 出典:Wikipedia)

 

 

平城京は、桓武天皇が784年に長岡京に遷都するまでの74年間、政治の中心地として機能しました。

 

ですが、長岡京に遷都した後、平城京は人口が増えすぎたことや水上交通の便が悪かったこと、仏教勢力から絶縁されたことにより、たちまち荒廃してしまいます。

 

そのため、現在かろうじて平城京の面影が残っているのは、左京の外側にあった東大寺や興福寺の門前町だけです。

 

まとめ

 平城京は、元明天皇が710年に藤原京から遷都した都。

 桓武天皇が784年に長岡京に遷都するまで、政治の中心地だった。

 平城京への遷都の背景には、元明天皇の皇位継承や藤原不比等の権力強化、遣唐使の問題などが絡んでいる。

 平城京は唐の都長安をモデルに造営され、東西南北に走る大路によって整然と区画されていた。

 平安時代に入ると、平城京はたちまち荒廃し、現在は東大寺や興福寺の門前町が残るのみとなった。