江戸幕府は1868年大政奉還によって崩壊してしまいます。
しかし、幕府にしたがっていた家臣たちは新政府軍に降伏せず徹底抗戦をして戦っていました。この戦いをまとめて戊辰戦争と呼びます。
今回のお話はその戊辰戦争の最終決戦である『五稜郭の戦い』についてわかりやすく解説していきます。
目次
五稜郭の戦いとは
(五稜郭の戦い 出典:Wikipedia)
五稜郭の戦いとは、1868年(明治元年)から1869年(明治2年)に起こった戊辰戦争の最終決戦の戦いのことです。
この旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いは、旧幕府軍の拠点『蝦夷地』で行われました。(現在の北海道あたり)
五稜郭の戦いは、函館戦争とも呼ばれています。
五稜郭の戦いまでのいきさつ
戊辰戦争の最初の戦いの鳥羽伏見の戦いで幕府軍は朝廷から朝敵認定をくらい、負けてしまいます。
幕府は朝廷の敵となってしまい、逆に天皇の味方である官軍になった新政府軍は幕府をぶっ潰すために江戸城に迫ってきました。
結局、勝海舟の交渉の甲斐あって江戸城は人が誰も死なずに開城(降伏)しました。しかし、幕府の家臣はそんなこと認めません。
幕府の家臣達は東北方面に逃げて東北の諸大名と奥羽越列藩同盟を結成して新政府に抵抗しました。が、奥羽越列藩同盟に参加した諸大名は新政府にあっけなく降伏します。
しかし、幕府の家臣であった榎本武揚は最後の最後まで諦めずに蝦夷まで北上しました。
そして、そのお供として鬼の副長とも言われていた土方歳三もいました。
鬼の副長『土方歳三』
(土方歳三 出典:Wikipedia)
土方歳三(ひじかたとしぞう)は京都の尊王攘夷派を取り締まるために結成された今で言う警察みたいな仕事をしていました。これが新選組です。
土方歳三は新選組の中でもNo.2の副長となっており、新選組の中で少しでも規律を破ったらその隊員は即切腹させるほど厳しい人でした。
しかし、新選組は幕府から正式な幕府の家臣としての認められるほど成長します。これでよかったねとならないのが世の中です。
幕府の家臣になった翌年には幕府は崩壊。さらに組長であった近藤勇は戦いの途中に新政府軍に捕まり板橋で斬首されてしまいました。
また、この時期に一番隊隊長の沖田総司も結核によってこの世を去ってしまいます。
仲間がどんどん死んで行く中で、土方歳三は新選組としての意地を見せるために新天地の蝦夷に向かいました。
蝦夷地の鉄壁要塞『五稜郭』!!
(北海道函館市 五稜郭)
蝦夷に着いた榎本武揚ら幕府の家臣は、幕府が作った要塞である五稜郭(ごりょうかく)に立てこもります。
五稜郭は可愛らしい星型の形ですが、実はこの形は可愛いだけではなく敵の攻撃を効果的に防ぐためにあの形になっているんです。
星型にすることによって5つの出っ張りができますよね?その出っ張りに大砲を置いて攻撃に備えていたのです。
例えば、普通の城だった場合大砲を飛ばす時にどうしても大砲が絶対届かないエリア(死角)ができてしまいます。
しかし、星型にすることによってその死角をなくしてどこでも狙い撃ちできるようになるのです。
さらに星型のくぼみ部分に攻めてきたら、その両端にある出っ張りから十字砲火を喰らわせることができて敵を効率的に倒すことができたのです。
この星型の形の城は五稜郭だけではなくヨーロッパの城のスタンダードな形でした。
幕府の家臣はここに立てこもったのです。
蝦夷共和国
(箱館政権の閣僚 前列右が榎本武揚 出典:Wikipedia)
幕府の家臣達はこの蝦夷の地でまた新しい政権を作ろうとしました。この政権のことを蝦夷共和国と言います。
榎本武揚(えのもと たけあき)は幕府が潰れて仕事がなくなった武士達を養うために、蝦夷に政権を作って彼らに仕事を作ろうとしたのです。
さらにこの蝦夷共和国は日本で初めて選挙が行われたとされています。
榎本武揚は蝦夷に新政府とは違う独立国家を作って、また新しいスタートを切ろうとしましたがそれを新政府は黙って見ていませんでした。
戦いの始まり
(蝦夷へ向かう旧幕府軍)
新政府は冬が明けて春が来るのと同時に蝦夷に攻めます。その数はおよそ1万人でした。
対する幕府側は3500人。戦いになるかどうかもわかりません。しかし、幕府側は戦いに挑んでいきました。
①宮古湾海戦
幕府側は新政府軍が宮古湾から侵攻して来る情報を手に入れ、幕府側は軍艦で立ち向かいました。
しかし、幕府側は新政府の最新型の武器に手も足も出ずにあっさり負けてしまいました。
②二股口の戦い
宮古湾海戦に勝ったことによって新政府軍は蝦夷に上陸します。
土方歳三は300名の軍勢を引き連れて新政府軍を待ち構えていました。
新政府軍は1000名を引き連れて攻撃を開始します。
土方軍一時は新政府軍を押し込むなど優勢でしたが新政府の援軍も到着して土方軍に総攻撃を開始します。土方軍は負けてしまい五稜郭に撤退しました。
③箱館総攻撃
(箱館総攻撃の図 出典:Wikipedia)
新政府軍はついに榎本武揚がいる五稜郭の真ん前まで攻めます。
さらに新政府軍700名は夜中に箱館山の裏側を登り山頂にいた旧幕府軍の監視兵を蹴散らします。そして、夜明けまでには箱館山を占領して五稜郭を攻撃する下準備が整いました。
新政府はその日の朝箱館市内に総攻撃を開始します。
土方歳三は新政府軍の総攻撃によって、孤立してしまった弁天台場という場所兵士たちの救出に向かいますが、一本木関門付近で指揮している時に新政府軍の狙撃兵によって撃たれてしまいます。
土方歳三は新選組の誇りを持ったまま新天地箱館で討死しました。土方歳三を失った幕府軍は崩壊。
榎本武揚は五稜郭に立てこもり必死に応戦しますが遂に食料が尽きてしまい降伏しました。こうして五稜郭の戦いは終わり、戊辰戦争も終結しました。
五稜郭の戦いの後
榎本武揚は降伏後牢獄に入れられます。
新政府の中では榎本武揚を処刑する声が上がりますが、五稜郭の戦いで新政府側の黒田清隆は『榎本武揚はとても優秀な人だから殺すのはやめてくれ!』と懇願します。
その懇願の力の入れ具合ははわざわざ丸坊主にするぐらいでした。そして、その熱意が伝わり榎本武揚は許されることになりました。
その後、榎本武揚は初代逓信大臣(通信大臣)に就任したり、ロシアと樺太・千島交換条約を締結したりするなど新政府の重要ポストとして活躍することになっていくのでした。
戊辰戦争の流れはこちらの記事で確認
まとめ
・幕府がなくなった後幕府の家臣達は北に行き新政府に抵抗した。
・幕府の家臣であった榎本武揚は五稜郭に立てこもり新政府軍の攻撃に備えた。
・五稜郭は攻撃を防御するのにとても適していた。
・しかし、新政府の総攻撃によって降伏した。
・榎本武揚は黒田清隆の懇願によって許され、新政府の重要ポストとして活躍した。