【江戸無血開城とは】簡単にわかりやすく解説!!西郷隆盛と勝海舟の運命の会談!

 

いきなりですが皆さんは皇居ってご存知ですか?

 

皇居は天皇が住んでいる場所です。

 

実はこの皇居、江戸時代は江戸城と呼ばれる徳川家の本拠地だったのです。

 

今回はそんな江戸城と関連の深い『江戸無血開城(えどむけつかいじょう)』という江戸時代と明治時代の転換点の大事件をわかりやすく解説していきます。

 

江戸無血開城とは?

(江戸城 出典:Wikipedia

 

 

江戸無血開城とは、1868年(慶応4年)に徳川家が江戸城を新政府に明け渡した出来事です。

 

これによって徳川家による日本の支配は終わりました。

 

大政奉還から江戸侵攻までの流れ

(徳川慶喜 出典:Wikipedia

 

 

江戸時代末期の1867年(慶応3年)に行われた大政奉還によって幕府は消滅しました。

 

 

しかし、幕府がなくなっても徳川家がなくなることはありません。

 

徳川家最後の将軍徳川慶喜は『幕府がなくなっても結局俺が政治を動かしていくんだよね』という考えがありました。

 

新政府は小御所会議という会議で徳川家に対して辞官納地(官位をやめて土地を返す)ことを新政府から命令されます。

 

 

もちろん慶喜はそんなこと認められないので薩長を潰すために京都に軍を連れてそこで薩長と戦いました。これが鳥羽伏見の戦いです。

 

鳥羽伏見の戦いでは徳川軍はぼろ負けして慶喜も仲間を捨てて江戸城に戻りました。

 

新政府は江戸城に逃げた慶喜を潰すべく江戸に侵攻する計画を立てます。

 

新政府の江戸侵攻計画

 

 

新政府は東海道・中山道・北陸道から江戸に侵攻しようと考えていました。

 

この時の目標は徳川家の滅亡、ただそれだけ。もちろん徳川家のお膝元の江戸が火の海になっても構わないと思っていました。

 

ところで皆さん幕末の江戸ってどれくらいの人が住んでいたのでしょうか?

 

実はこの当時の江戸は100万を超える巨大都市だったのです。この人口はロンドンやパリを超える人口でした。

 

もしそんな大都市が火の海になったらどうなるでしょうか?普通に考えたら日本中が大混乱してしまいます。

 

もちろん新政府の中にも徳川家の家臣の中にも江戸を攻めたらまずいということを分かっている人はいました。

 

そんな思いを持ちながら新政府軍は京都を出発しました。

 

なんとか侵攻を止めなければ!人々の奮闘

(天璋院篤姫 出典:Wikipedia

 

 

新政府軍は京都を出発してどんどん東に進んでいきます。

 

江戸総攻撃の日は3月16日に決まりました。つまり、この日が江戸総攻撃を中止することができるタイムリミットです。

 

そんな中、天璋院篤姫と和宮の二人の女性が立ち上がりました。

 

天璋院篤姫は13代将軍徳川家定、和宮は14代将軍徳川家茂と結婚しており、夫が死んだ後も徳川家に残っていました。

 

二人の故郷は新政府の親玉である薩摩藩と朝廷です。

 

篤姫と和宮はゆかりのある新政府に対しては徳川家の存続を懇願しましたが、結局徳川家は朝敵だからダメという理由で止めることはできませんでした。

 

しかし、篤姫はこの時新政府軍の幹部の一人である西郷隆盛に対して手紙を書いて送りました。

 

この手紙が西郷隆盛の考えを変えたのかはわかりませんがこの手紙がのちに影響を与えることになるのです。

 

山岡鉄舟の交渉

(山岡鉄舟 出典:Wikipedia

 

 

新政府の江戸総攻撃が近づいている中、勝海舟と山岡鉄舟という人が交渉をしようと計画を立てて、新政府と交渉するため奔走します。

 

そして総攻撃が迫っている3月13日、西郷隆盛は山岡鉄舟の頑張りを見て、以下の7カ条にOKしてくれれば攻撃を中止します。という条件を提示します。

  • 徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。2、江戸城を明け渡すこと。
  • 軍艦をすべて引き渡すこと。
  • 武器をすべて引き渡すこと。
  • 城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
  • 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
  • 暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。

しかし、山岡鉄舟は1条は断固拒否します。

(なぜなら慶喜をほかの大名に預けても何されるかわかったもんじゃないですからね)

 

山岡鉄舟は西郷隆盛に『じゃあ、もし薩摩藩主がいきなり他の藩に預けるとなったら断固反対するだろ!』と問い詰めてなんとか理解してもらい1条は保留となりました。

 

勝海舟と山岡鉄舟はもしこの交渉が上手くいかなかったら、江戸を自ら焼け野原にする覚悟でいたため、もしこの時西郷が理解していなかったら日本の歴史は変わっていたかもしれません。

 

西郷隆盛と勝海舟の運命の会談

(西郷隆盛 出典:Wikipedia

 

 

新政府は西郷隆盛の交渉を横目に順調に進軍していきます。

 

そんな時新政府を戸惑わせるとんでもない事態が起きてしまいます。

 

なんとイギリスが江戸総攻撃を中止しろと圧力をかけてきたのです。

 

当時のイギリス外交官だったパークスという人は新政府に対して『もう降伏しますと言ってるのに攻撃するのは国際法違反。もし、それでも攻撃するのであればこれから二度と新政府に協力しない。』ということを言います。

 

新政府はこの時ようやく江戸を攻撃したら日本は逆にとんでもないことになるということに気づいたのです。

 

そして3月14日ついに幕府代表の勝海舟と新政府代表西郷隆盛が会談しました。

 

(西郷隆盛と勝海舟の会談)

 

 

新政府側の提案はなるべく徳川家に譲歩した内容でした。

 

  • 徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
  • 慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
  • 武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
  • 城内居住の者は、城外に移って謹慎する。江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。

という提案を出して勝海舟はそれを受け入れました。

 

そして、江戸総攻撃はタイムリミット2日前でストップしたのです。

 

その後、西郷隆盛は交渉した内容を朝廷に相談して、だいたい交渉どうりの形で決定。4月11日には徳川慶喜は水戸に退去して、城は一滴の血も流さずに新政府に明け渡されました。

 

その後、戊辰戦争などの抗戦派との戦いはありますが、これにより江戸は平和的に明治維新を迎えることができたのです。

 

 

徳川家のその後

徳川家は交渉の内容通り、徳川吉宗の家系である御三卿の1つである田安家から亀之助という人を徳川家の当主にすることが認められました。

 

その後、徳川家はこれまでの天領800万石から駿府静岡80万石と十分の一となりましたが、なんとか家を守って廃藩置県を迎えることになるのです。

 

 

また、慶喜は無血開城以降カメラや自転車などさまざまな趣味にはまり、悠々自適の生活を送ったそうな。

 

まとめ

 江戸無血開城とは、1868年(慶応4年)に徳川家が江戸城を新政府に明け渡した出来事のこと。

 新政府は徳川家を滅ぼすため江戸に侵攻。江戸侵攻を止めるために天璋院篤姫と和宮は新政府に手紙を出して懇願した

 交渉のために西郷隆盛は山岡鉄舟に7ヶ条を要求した。

 イギリスの圧力もあり西郷隆盛は勝海舟と会談して新政府の江戸侵攻を止めることができた。

 江戸無血開城のより、徳川家は静岡に行くことになりそこで廃藩置県を迎えた。

 

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【みんなの感想】

本書では、史料で基づいた江戸無血開城を記した本である。
日本史の教科書では、江戸で勝海舟と西郷隆盛が会談したことで、江戸城総攻撃が中止されたと書いてある。しかし、実際は駿府で、山岡鉄舟と西郷隆盛の間で会談を行い江戸城総攻撃を中止することになった。
詳しく述べると、慶喜は恭順の意思を政府軍に伝えるため、初めは高橋泥舟を派遣することを検討するが、自身の側においておきたいことから泥舟の派遣を取りやめることになる。ここで泥舟は、実弟である山岡鉄舟を推薦して、慶喜は山岡鉄舟に対して恭順の意思を伝達する命を鉄舟に授けることになった。そして、駿府にて、江戸城の明け渡しや兵器や軍艦の引き渡しなどを条件に江戸城総攻撃を中止することが決められた。しかし、慶喜の処遇に関しては決めることができなかった。
その後、江戸にて、勝海舟と西郷隆盛は会談を行ったが、この会談は、慶喜の処遇に関する会談であった。最終的に水戸に謹慎することが決定して全ての問題が解決することになった。
本書の表紙でもある結城素明の「江戸開城談判」は、江戸無血開城ではなく、慶喜の処遇に関する会談であったと考えるのが妥当である。これが江戸無血開城の真実であると本書を通じて学ぶことができた。
多くの方に、読んでいただきたいと思っている。