現代では、世界中で当たり前のように人権が主張されています。
しかし、人権が保障されるようになったのはつい最近の出来事。日本にも人権を持たない人たちがいた時代がありました。
最もわかりやすく人権を持たない人がいた時代が江戸時代です。
江戸時代には、えた・ひにんと呼ばれる差別を受ける人、また差別を受けないまでも士農工商という身分制度があり、生活を制限されていた人たちも居ました。
今回は、そのような江戸時代の身分制度についてわかりやすく解説していきます。
目次
江戸時代の身分制度
①士農工商
江戸時代には士農工商という身分制度がありました。
士農工商の意味
✔ 士とは『武士』のこと。
✔ 農とは『農民』のこと。
✔ 工とは『物作りをおこなう職人』のこと。
✔ 商とは『者の売り買いをおこなう商人』のこと。
士農工商の順番に武士が最も高い身分で、続いて農民、三番目が職人、最後が商人という順番でした。
②えた・ひにん
(非人 乞食 出典:Wikipedia)
さらに、士農工商の下に奴隷のような扱いを受けていた、えた・ひにんと言われる人々が居ました。
えた・ひにんと呼ばれる人たちは差別を受け制限も多くありました。
ここからはなぜこのような制度ができたのか?背景を解説していきます。
江戸時代の身分制度の背景や目的
①身分制度を設け、階級をつける目的
江戸時代に士農工商という身分制度がおかれた理由は、将軍や藩主と言った武士たちが一般の町人を管理しやすくするためと言われています。
なぜ、管理をすることになるのかと言うと、徳川家康を始めとする各将軍は江戸幕府を運営するときに過去の幕府の失敗に対して気をつけていたと言われています。
②過去の幕府の失敗
まず、日本で一番初めの幕府は鎌倉幕府です。
鎌倉幕府が滅びることになった原因は『元寇』です。
元が日本に攻めてきたことがきっかけとなり御家人への恩賞を与えることができずに鎌倉幕府は滅びることになりました。
室町幕府の滅んだ原因は応仁の乱による大名の後継争いです。
そのため、大名に対する統制を取ることができないと幕府が滅びることを徳川家は学んでいたのです。
そして、室町幕府は一揆が盛んに行われており、幕府もガタガタの状態でした。
これらのことから江戸幕府では海外に対して、大名に対して、農民に対して気をつけた政策をおこなっていくのです。
③江戸幕府の対策
過去の幕府の失敗に対して気をつけていた江戸幕府は、様々な対策をおこなっていきます。
まず、外国に対しては鎖国政策を実施します。鎖国をおこなった理由に関しては後述していきます。
大名に対しては武家諸法度という法令をだして大名を統制していきます。
そして、百姓に対しては士農工商の身分制度を実施するのです。
④士農工商、えたひにんという身分制度の狙い
士農工商をおこなった意図は、農民を統制するためです。
農民は人口の割合でいうと最も高く農民が団結して一揆などを起こすと厄介だと考えました。そこで、身分制度を行うのです。
一般的に農民の地位はそこまで高くありません。
しかし、農民の立場を低くしてしまうと不満がたまり一揆などが起こりやすくなってしまいます。
そこで、武士の次に身分が高いのは農民であるとしたのです。
そして、それだけではなく士農工商の下にえた・ひにんという身分を作りました。
えた・ひにんは、差別され奴隷として扱われていた人々です。えた・ひにんを見ると農民は自分たちはまだマシであると考えるようになるのです。
そのため、身分制度によって農民の不満を逸らすことに成功したのです。
⑤慶安の御触書
さらに、身分制度だけでは無く農民を統制するために用意したものが慶安の御触書です。
これは、農民の生活を統制するためのものでした。
書いてあった内容は、百姓は朝早く起きなければいけないことや、水しか飲んではいけないことなど質素倹約を求められる文言が記載されていました。
これにより、武士の統制に成功するとともに安定して年貢を納めさせることに成功しました。
⑥江戸幕府が鎖国した理由
ここまでお話してきたように江戸幕府は農民の統制に成功します。しかし、身分制度が危ぶまれるものが日本に入ってきました。
それが、キリスト教です。
キリスト教の教えでは【人類は皆平等】。そのため、世界でも影響力の強いキリスト教の考え方が国内に広まると士農工商の身分制度自体が危ぶまれると考えました。
そこでキリスト教を禁止し、儒学を奨励していきます。もう既に国内でもキリスト教が広まっており、キリシタン大名と呼ばれる人々も現れ始めました。
キリスト教を取り締まるために絵踏みや寺請制度を設けてキリスト教を弾圧していきました。
そうした中で、キリスト教を禁止したことで九州の長崎で島原天草一揆が起こります。
やはりキリスト教は危険であるとして江戸幕府は鎖国を決意します。
これが、江戸幕府が鎖国を決意した理由です。
士農工商&えた・ひにんについて詳しく
①士農工商について
士農工商の内容は江戸時代の身分制度です。
武士が最も身分が高く、農民、職人、商人が後に続きます。
最も身分の高い武士には、帯刀が許され、苗字を持つことも許されました。
また、切り捨て御免という特権も与えられており、身分が下のものが武士に対して非礼を働いた場合には切って良いという特権を持っていました。
農民は、立場こそ高いですが、慶安の御触書で生活を管理され安定して年貢を納めるようにされていました。住む場所も城下から少し離れた場所で農業を営みます。
職人や商人にはこれと言った制限はなく、暮らしも城下でおこなうことができました。
そして身分は生まれ持ったものであり、農民の子は農民、武士の子は武士という世襲制となっていたのです。
②えた・ひにんについて
えた・ひにんと呼ばれていた士農工商の下の立場の人々は奴隷のように扱われていました。
なぜ、彼らが差別を受けるようになったかというと職業に関連しています。
えた・ひにんの人々は清掃や革製品の取り扱い、牢の番人など汚らわしいとされる仕事をしてきました。
(穢多"仕事中" 出典:Wikipedia)
そのため差別を受け、一般人との結婚が許されず、同じ地域で生活をすることを義務付けられることになるのです。
こうしたことは、近世になっても同和問題(部落差別)と言われて問題になっています。
まとめ
✔ 江戸時代の身分制度は士農工商とえた・ひにんで分けられていた。
✔ 士農工商は、農民を統制するための方法の1つであった。
✔ 士農工商を維持するために鎖国政策やキリスト教の禁止はおこなわれた。
おすすめの書籍
タイトルは「身分差別社会の真実」であるが、内容は身分差別社会全般を扱っているわけでなく、「えた・ひにんの実態」と言えるものである。学校教育から知ることの出来ないその実態には、以下のことなどが挙げられる。
■えた・ひにんの身分は政治権力のみによって作られたのではない。
■えた・ひにん身分の中にも大地主になり、裕福な暮らしをしている者がいた。
■履き物、灯心、砥石などの生産・販売もえた・ひにん身分の仕事とされていた。
■えた・ひにん身分の人たちは下級警察的役務にも従事していた。
えた・ひにん身分の人たちが差別されていたことは確かだが、それ以外の人たちとの交流を断たれて社会の片隅に追いやられ、惨めな非人間的生活を送っていたと言うわけでもない。えた・ひにんの実態から、江戸時代の身分差別社会を単純にピラミッド化して考えない方がよいと教えてくれる著作である。
江戸時代の身分制度が士農工商+「えた」「ひにん」からなっていたという通説が誤解を与えるものであり、不適切な表現という指摘から、本書は始まる。
あえていえば武士階級と平民(農民、町民と商人)と、そして被差別階級があり、それぞれの内部での上下関係は厳しく固定であったという。そして江戸時代には、その時代の身分制度の表現として「士農工商」のような用語はなかったらしく、この用語が妙な市民権を得るのは明治に入ってからのようである。このことが確認され、本書はその後、畿内を中心に全国に広まった中世、近世以降の被差別階級の生活の実態にメスを入れる。
彼らは斃牛馬の処分にあたり、皮革業、雪駄の生産と販売、砥石の生産に従事した。特別年貢納令の枠がはめられたこともあり、平民との婚姻は著しく制限され、下級警察組織、番牢人の役割もになった。ケガレた存在として忌み嫌われ、社会的地位は貶められた。しかし、一面で彼らの生活は必ずしも悲惨なばかりでなく、それなりの豊かさを確保したものもいた。また、被差別階級の地位の改善のために闘った事例の紹介もある。
著者はこれらの被差別階級がどうして存在するようになったのかについて、それがときの権力によって意図的に作られたものとする見解を排し、「みんな」すなわち「社会」によって生み出されたものとする見地に立っている。従来の多くの研究成果をふまえ、実例をあげ、問題に切り込んでいく姿勢は評価できる。