【独ソ不可侵条約とは】簡単にわかりやすく解説!!背景や目的・内容・破棄など

 

第二次世界大戦はドイツがポーランドに侵攻したことによって始まりました。

 

しかし、このポーランド侵攻の少し前ドイツはソ連と不可侵条約を結んでなんとポーランドを2つに分けるという協定を締結していました。一体何でこんなのことをしたのでしょうか?

 

今回は、そんな『独ソ不可侵条約』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

独ソ不可侵条約とは?

(条約に調印するソ連外相モロトフ 出典:Wikipedia

 

 

独ソ不可侵条約とは、1939年に締結された不可侵条約で、条約を結んだ人の名前からモロトフ=リッペントロップ条約協定(M=R協定)とも言われています。

 

不可侵条約とは要するに結んだ「条約同士が戦争をしません」ということを条約で表した一種の中立条約みたいなものです。

 

この独ソ不可侵条約を結んだことによってドイツはポーランドに侵攻し、そしてフランスへと攻めていくことになるのです。

 

独ソ不可侵条約締結の背景・目的

(フレンスブルク政府 国旗 出典:Wikipedia

 

 

この独ソ不可侵条約は世界にかなりの衝撃を与えた条約でもありました。

 

一体何が衝撃を与えるようなことだったのでしょうか?まずはそこからみてみましょう。

 

①ドイツのソ連敵視

まず、この頃のドイツ(ナチス・ドイツ)はソ連のことをとにかく嫌っていました。

 

実はこれにはヒトラーの東方生存圏という考えがあったからだと言われています。

 

東方生存圏というのは要するにアーリア民族(ドイツ人のこと)にとってドイツの土地が狭すぎるので、東方面に広大な植民地を作ってそこにアーリア民族を住ませるというもの。

 

これだけでも結構無茶苦茶なんですが、これはヒトラーの考え方をまとめた本である『我が闘争』の中にも普通に書かれているヒトラーの政治的な最終的な目標でもあったのです。

 

 

さらにヒトラーはスラヴ人(ロシア人)をユダヤ人同様に劣等民族としてみなしており、ヒトラーは東方生存圏を構築した後はウラル山脈よりも東側に追放して何もできないような状態にしなければいけないということも語っていました。

 

つまり彼からすればソ連と仲良くするということは考えられないこと、あり得ないことだったのです。

 

②ミュンヘン条約による英仏との関係悪化

しかし、ミュンヘン条約からドイツは英仏とも敵対していくことになります。

 

要するにドイツが東に攻めて力をつけることはどうしても避けたかったんです。

 

しかし、これによってドイツはポーランドに攻める時にとあることに悩まされることになります。

 

ドイツという国はヨーロッパの中でも中間に位置して西側にイギリスとフランス、東側にソ連がありますよね。

 

そのためドイツからしたらもしポーランドに攻めた時にソ連とイギリスとフランスがドイツに攻めてきたら、さすがにまずいと考えていたわけです。

 

③ソ連の思惑

(ソビエト連邦の国旗 出典:Wikipedia

 

 

ソ連としても独ソ不可侵条約を結ぶのが良いという思惑がありました。

 

ソ連は当時極東方面で日本と対峙しており、この頃ノモンハン事件などの国境紛争が起きていました。

 

さらにソ連はこの頃スターリン書記長によって赤軍大粛清という軍の一斉弾圧を行っており軍が著しく弱くなっていました。

 

そのため、ソ連からしたらまだドイツと争うのは得策ではなく、不可侵条約を結んで軍を立て直すことを重視したいと考えていました。

 

独ソ不可侵条約の内容

①条約の内容

独ソ不可侵条約の内容は

 相互の不可侵

 一方が第三国から攻撃された場合は他方はこの第三国を援助せず中立を守る

 両国の発展のために情報交換を行う

 独ソ間で紛争が起きた場合、調停するための組織を作り解決させる

 条約の有効期間は10年間とする

というものでした。

 

まぁ、簡単に言えば独ソの間で戦争は起こしませんよというものです。

 

しかしこれはあくまでも世界に向けての内容だったのでした...

 

②秘密協定

独ソ不可侵条約は表面はお互いに戦争はしませんというものでしたが、裏にはこれからドイツが攻めようとしていたポーランドに関する内容がありました。

 ポーランドはドイツが占領した後は西側をドイツ、東側をソ連で分割する

 バルト三国(ラトビア・リトアニア・エストニア)はソ連のものにする

 

ちなみにこの時ポーランドとバルト三国もちゃんとした独立国でした。

 

つまり他国を交渉の内容に入れて勝手に領土の取り決めをしていたというわけです。ひどい内容ですね。

 

独ソ不可侵条約の影響

①世界の反応

この独ソ不可侵条約は。「フランスとイギリスからすればヒトラーは共産主義とスラヴ人が大嫌いなのだからソ連と結べるわけがない」と考えていた世界にとんでもない衝撃を与えます。

 

イギリスが譲歩したミュンヘン条約もドイツをソ連の防波堤にしたいから譲歩したという理由もありましたし。

 

そのため、イギリスとフランスはこれ以上ドイツの要求を飲むことはせず、ドイツと真っ向から対立する道を選んでいくことになります。

 

また、世界の共産主義の政党も衝撃を受けましたが、共産主義政党の親玉でもあるソ連から『これは国家社会主義に対する究極の反抗』という意見をもらってこの条約を渋々受け入れることになりました。

 

②日本の反応

おそらく独ソ不可侵条約で一番衝撃を受けた国は日本だったと思います。

 

上にも書いた通りこの頃の日本とソ連の仲は最悪。国境付近で紛争が起きており、同じく共産主義が嫌いなドイツとイタリアと防共協定を結んでさらにドイツとの同盟関係を交渉していました。

 

しかし、ドイツがソ連が仲良くなったことによって日本としたらドイツと同盟関係を結ぶことができないとして当時の首相である平沼騏一郎は交渉を中止。

 

さらに「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を残して内閣を総辞職しました。

 

これ以降、日本はソ連との友好を模索していくようになり、後に日ソ中立条約を結ぶことになりました。

 

しかし、これが今度はドイツが衝撃を受けることになるのですがそれはまた別の話...

 

独ソ不可侵条約の破棄

(独ソ戦に突入 出典:Wikipedia

 

 

ドイツは独ソ不可侵条約を結んだ後、満を持してポーランドに侵攻。

 

これに対してイギリスとフランスはドイツに宣戦布告を行いついに第二次世界大戦が始まってしまうことになりました。

 

ドイツは電撃戦という素早く敵の領土を占領して勝つという手法を使いポーランドを圧倒。約2週間でポーランドを制圧しました。

 

この後取り決め通りポーランドは独ソ間で分割。連もバルト三国に侵攻して占領しました。

 

しかし、ヒトラーは東方生存圏を諦めておらず、フランスを降伏させると一気に軍を反転。ドイツは条約を結んだ2年後についにバルバロッサ作戦を実行し、独ソ戦が始まりました。

 

こうして独ソ不可侵条約は破棄されました。

 

まとめ

✔ 独ソ不可侵条約とは1939年にナチスドイツとソ連の間に結ばれた不可侵条約のこと。

✔ ナチスドイツとソ連は元々不可侵条約を結べるほどの仲ではなく、この条約は世界に衝撃を与えた。

✔ 独ソ不可侵条約は表面ではドイツとソ連が互いに侵攻しないとしていたが、裏ではポーランド分割やバルト三国について話されていた。

✔ この独ソ不可侵条約に衝撃を受けた当時の平沼騏一郎は『欧州情勢は複雑怪奇』という言葉を残して内閣を総辞職した。

✔ 独ソ不可侵条約はナチスドイツのバルバロッサ作戦によって破棄された。