真珠湾攻撃で討ちもらした空母に悩まされた日本海軍。
アメリカ機動部隊を殲滅するためミッドウェー島攻略作戦を立てます。
今回は太平洋戦争の転換点となった『ミッドウェー海戦』についてわかりやすく解説していきます。
目次
ミッドウェー海戦とは?
(炎上するミッドウェー島基地 出典:Wikipedia)
ミッドウェー海戦とは、1942年(昭和17年)北太平洋のハワイ諸島北西にあるミッドウェー島付近で行われた海戦です。
日本海軍の機動部隊とアメリカ海軍機動部隊・ミッドウェー島基地航空隊の間で戦闘が行われ、日本海軍は参加した空母4隻全てが撃沈されるという大敗北をします。
ここまで破竹の勢いで進撃してきた日本海軍にとっては、敗北への道を歩むことになる転換点になる戦いでした。
ミッドウェー海戦はなぜ起こったのか?
(日本に向かいうドーリットル隊所属のB-25 出典:Wikipedia)
①ドーリットル空襲と防衛対策の見直し
真珠湾攻撃のあとも日本軍潜水艦によるアメリカに対しての通商破壊作戦が行われていました。
日本軍潜水艦はアメリカ西海岸付近の商船を攻撃しただけではなく、ときには沿岸の石油施設に砲撃も加えていました。
こうした状況にアメリカ国民の士気も低下していきます。
そこでアメリカ軍は士気向上のため、日本本土への空襲を計画しました。
アメリカ海軍の空母に載せている飛行機は航続距離が短いため、日本近海に接近しないと攻撃できません。これだと日本軍にみつかって反撃される可能性もあります。
このときのアメリカ軍にとっては虎の子の空母ですから失うわけにはいきません。
そこで、航続距離の長い陸軍の爆撃機を空母に載せることで対応することにしました。これで少し離れたところからでも攻撃ができるというわけです。
もちろん大型の陸軍の飛行機ですので海軍の飛行機のように直接空母に離着艦はできません。
そこで空母には港でクレーンを使って積み上げ、飛び立った攻撃機は東京などの主要都市を空襲した後、中国大陸まで飛び中国軍の基地に向かうことになりました。
こうして1942年(昭和17年)4月18日にアメリカ軍による東京をはじめとする日本各地への空襲が行われました。これは指揮官の名をとってドーリットル空襲と呼ばれています。
日本側の被害は軽微でしたが、東京を空襲されたことのショックは大きく、防衛体制を強化することが早急に求められました。
②ミッドウェー作戦の立案と採用
ミッドウェー作戦そのものはドーリットル空襲の前から立案されていました。
しかし、本土空襲の再発を防ぐため哨戒基地の前進と、敵空母を発見し撃沈する必要性が出てきました。そのためミッドウェー作戦が採用となります。
ただ海軍の中でもミッドウェー作戦の目的が「ミッドウェー島の占領」なのか「アメリカ海軍空母の撃滅」なのか、指揮官の間でも認識の違いがありました。
事前のシミュレーションでもこのことが露呈し失敗する可能性が指摘されますが、最後まで認識が統一されないまま作戦が決行されることになりました。
主目標がはっきりしないまま作戦を実行することになったことも、ミッドウェー海戦での日本の敗因の一つとして挙げられています。
ミッドウェー海戦のはじまりと経過
(真珠湾のドックに入る米空母「ヨークタウン」 出典:Wikipedia)
①アメリカ軍の情報戦
アメリカ軍では日本軍の暗号を断片的に解読していましたが、次の日本軍の攻撃目標がわかりませんでした。
次の日本軍の攻撃目標地点を指しているであろう「AF」という言葉が良く出てきていたのですが、それがどこを指しているのかわからなかったのです。
ワシントンの統合参謀本部ではハワイ、陸軍航空隊はサンフランシスコだと予想していました。一方海軍ではミッドウェーではないかという予測を立てます。
その確証を得るために、わざと「ミッドウェー島で水不足が起きている」という電文を発しました。それを傍受した日本軍は暗号で「AFは真水不足」という電文を発します。
これによって日本軍の次の攻撃目標がミッドウェー島であることがわかりました。
そこで海兵隊や航空機を増員してミッドウェー島の守備力を高めるとともに「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の3隻の空母を中心とする艦隊を派遣しました。
②ミッドウェー島への攻撃
5月27日、「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」4隻の空母を主力とする艦隊がミッドウェー島へ向かって出港しました。
6月5日、4隻の空母から第一次攻撃隊が発進、ミッドウェー島へ空襲を開始します。
第一次攻撃隊がミッドウェー島を攻撃したのと同じ時期、4隻の空母も基地航空隊からの攻撃を受けていました。
日本艦隊は被害を最小限に食い止めますが、基地への第二次攻撃の必要性が迫られていました。
③敵空母発見と日本機動部隊の混乱
もともと、日本の4隻の空母は半数が基地攻撃用の爆弾、半数はアメリカ海軍艦隊が現れたときのために、艦船攻撃用の装備がされていました。
しかし、基地への第2次攻撃の必要性から艦船攻撃用の装備を解き、基地攻撃用の爆弾に変更しなければいけなくなりました。
ちょうど変更が終わったとき、敵艦隊発見の知らせが入ったのです。
艦隊がいるということは空母も来ているはず。敵基地からの攻撃は受けていますので、敵空母からの攻撃を受ける可能性も十分にあります。
そこでまた艦船攻撃用の装備に戻すことになりました。そうこうしているうちに、ミッドウェー島を攻撃してきた第1次攻撃隊も帰ってきます。
先に帰還させるのか、艦隊攻撃を優先するのか、またもや判断に迫られることになりました。
司令部は攻撃隊の収容を優先。収容も終わり、まさに艦隊攻撃のために部隊が発進しようとしたとき、アメリカ海軍の空母艦載機が攻撃をしてきたのです。
日本艦隊空母は大損害。ほんのわずかな時間で「赤城」「加賀」「蒼龍」の3隻は戦闘不能に陥ります。
(爆撃の受け、回避行動中の空母飛龍 出典:Wikipedia)
その後「加賀」「蒼龍」は沈没。「赤城」は味方駆逐艦によって雷撃処分されました。
残った「飛龍」は反撃を試み「ヨークタウン」を大破させますが、アメリカ艦隊の攻撃を受け炎上。「飛龍」も最後は味方駆逐艦による処分で沈みました。
「ヨークタウン」はその後ハワイへ戻る途中、日本軍潜水艦の攻撃で沈没しました。
ミッドウェー海戦の敗因
(炎上傾斜する日本の重巡洋艦 出典:Wikipedia)
敗因は第一に作戦目標がはっきりしなかったことです。
4月のドーリットル空襲を受け、作戦内容を指揮官が共有しないままに実行してしまったことが、現場の混乱を生み出しました。
準備不足ということですね。
ミッドウェー島を占領するのか、敵空母を沈めるのかどっちつかずの方針だったことが災いしました。
また真珠湾のときと違って、攻撃だけではなく防御も考える必要があります。
一つの空母の上で、基地攻撃、敵艦隊索敵、味方の防衛、敵艦隊攻撃の4つを行わないといけないため、刻一刻状況が変わる戦場では判断を下す指揮官にも資質が求められました。
さらにこれまで連戦連勝していたこともあり、驕りや油断を生んでいたことも敗因にあげられます。
ミッドウェー海戦のその後
(ぜいたくは敵だ! 出典:Wikipedia)
①日本軍のその後
空母4隻とその搭載機を一気に失ったことは日本軍にとって大きな痛手でした。
その後しばらくは主力空母2隻になってしまい、守勢に転じてしまいます。
一方搭乗員はほとんど救出されたため、大きな損失はなく士気も上がっていました。ただ後継者の育成はその後も順調に進まなかったので次第にベテランパイロットも失われていきます。
大敗北を喫したにも関わらず司令部の責任は問われず、その後も指揮を取ることになります。
合わせて戦果の水増しが行われ、国民には真相が語られないまま戦争が続いていくことになります。
②アメリカ軍のその後
アメリカ軍も損害を受けましたが、真珠湾攻撃に参加した空母を撃沈することでその報復を果たしました。
またそれ以上に開戦より半年、快進撃を続ける日本軍を止めることができたことが大きかったです。
また戦前より建造を進めていた大型空母を配備するまでの時間を稼ぐことができました。
大戦後期には空母の集中運用が可能になり、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦では大機動部隊により日本軍を圧倒しました。
まとめ
✔ ミッドウェー海戦は日本とアメリカで行われた空母による海戦のこと。
✔ 日本軍は参加空母4隻全てを失った。
✔ ここまで快進撃を続けた日本軍は以降守勢に転じ、敗北への道を歩む。
✔ アメリカ軍は日本軍の勢いを止め、真珠湾の復讐も果たすことができた。
✔ アメリカ軍は空母建造の時間を稼ぐことができ、以後の戦いを有利に進めることができた。