太平洋戦争開戦から8カ月。西太平洋のソロモン諸島では日米の死闘が始まります。
ミッドウェー海戦と並ぶ、太平洋戦争の転換点となったガダルカナル島の戦い。
今回はそんな『ガダルカナル島の戦い』について、経過や敗因などわかりやすく解説していきます。
目次
ガダルカナル島の戦いとは?
(ガダルカナル島の戦い 出典:Wikipedia)
ガダルカナル島の戦いとは、第二次世界大戦において1942年8月から翌年2月まで西太平洋のソロモン諸島にあるガダルカナル島で繰り広げられた戦いです。
日本はこの戦いで、兵員、軍艦、航空機、燃料、武器等をたくさん消耗し、国力が大きく減少しました。
ミッドウェー海戦以上にその後の戦争の行方に影響を与えた戦いです。
ガダルカナル島の戦いに至った背景
(シンガポール市街を行進する日本軍 出典:Wikipedia)
①快進撃の日本軍
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃から日本は、南方にある石油などの資源を手に入れるため東南アジア方面に軍隊を進めました。
アメリカの植民地であるフィリピン、イギリスの拠点シンガポール、オランダの植民地である蘭印(今のインドネシア)が当初の攻略目標でした。
これらの地域への侵攻は予想以上に進展し3月には一帯の占領が完了します。
そこで日本軍にとっては新たな作戦を練る必要が出てきました。
次に日本軍が考えたのは連合軍の反抗拠点になる可能性のあるオーストラリアとアメリカの分断をはかる米豪分断作戦です。
②ミッドウェー海戦の敗北と作戦の変更
米豪分断作戦は空母機動部隊の支援によって成立していました。
しかし、6月のミッドウェー海戦で空母4隻を失ってしまったため、作戦計画を変更しないといけなくなりました。
空母がないのであれば、どこかの島に飛行場を作り、基地航空隊を配備しなければなりません。
その島に選ばれたのがガダルカナル島です。東京から6000kmほど離れたソロモン諸島の島でした。
ここに1000名ほどの兵員で飛行場を建設し8月5日には第一期工事が完了しました。
ガダルカナル島の戦いのはじまり
(アメリカ軍の上陸 出典:Wikipedia)
①アメリカ軍の反撃
アメリカ軍は反撃の機会をうかがっていました。
海ではミッドウェー海戦で日本の勢いをとめ、次は陸上戦で成果を上げるタイミングでした。
これまでの日本軍は連戦連勝でしたので、アメリカ軍から日本軍は不死身なのではないかと恐れられていました。そうではない、ということを証明しないといけません。
飛行場が完成した2日後、アメリカ軍はガダルカナル島に対して8000名ほどの戦力で攻撃を開始します。
日本軍守備隊は数が少なく苦戦。アメリカ軍の上陸を許し、日本軍が作った飛行場も占領されてしまいます。
アメリカ軍はブルドーザーを使って飛行場を整備し、ヘンダーソン飛行場と名付け使用し始めました。
(ヘンダーソン飛行場で作業するアメリカ軍 出典:Wikipedia)
ここから日米のガダルカナル島での死闘が始まりました。
日本軍はこれをアメリカ軍の本格侵攻だとは思っておらず、予測が間違ってしまったこともこのあとの戦いに苦戦してしまう要因にもなりました。
②第1次ソロモン海戦
(第一次ソロモン海戦 出典:Wikipedia)
海でも戦いがありました。
島へ兵員や物資を輸送するためには制海権を取らねばなりません。
日本軍はアメリカ軍の輸送艦隊を撃破するために艦隊を出動。アメリカ艦隊と遭遇した日本艦隊は攻撃をしかけ、敵の重巡洋艦4隻を沈めますが輸送艦隊への攻撃は中止になりました。
このためアメリカ軍は大量の物資の揚陸に成功し、このあとの戦いを非常に有利に進められることになりました。
このあと日米双方の島への物資補給のため輸送作戦が繰り広げられますが、普通の輸送船では速度が遅く敵に見つかって攻撃される可能性も高いため、本来は戦闘艦である高速の駆逐艦を使って輸送をすることになりました。
③日本軍の反撃と餓死者の発生
日本軍は反撃のため、陸軍の一木支隊をガダルカナル島に送り込みます。
この部隊は本来、ミッドウェー島の攻略を担当する予定でしたが、ミッドウェー海戦の敗北によってグアム島で待機していました。
一木支隊に届いていたアメリカ軍の情報は、兵員2000名という実際よりもかなり少ない戦力でした。
しかし、実際には11000名ほどのアメリカ軍がいたのです。
(アメリカ軍第2海兵隊 出典:Wikipedia)
これに対する一木支隊は1000名弱。一木支隊は果敢に攻撃をしかけますが、圧倒的な敵戦力の前にほぼ壊滅状態に陥ります。
その後日本軍は川口支隊4000人を派遣します。
敵艦船の攻撃を受けながらも、川口支隊はガダルカナル島に上陸。アメリカ軍に攻撃をしますが、武器弾薬が不足し十分な攻撃を加えることができませんでした。
以後、日本軍アメリカ軍ともに兵員や物資の輸送に取り組みますが、特に日本軍にとって兵員はともかく物資の輸送に苦労し、アメリカ軍との戦闘だけではなく、餓死との戦いも含めガダルカナル島は「餓島」と言われるようになりました。
④日米の補給力の差
ガダルカナル島への空からの援軍は、日本海軍の航空基地のあるラバウルから飛んできていました。
しかし、航続距離の長いゼロ戦をもってしてもガダルカナル島上空では帰りの燃料切れを気にしながらの戦いになります。
また飛行時間も長いので、相当の集中力を必要としました。
代わりの搭乗員も十分にいないので、出撃するときはほぼ同じメンバーで行くことになり、攻撃の度に、搭乗員も機体も失われていきました。
一方、アメリカ軍は自分の基地の上に来る日本軍を戦うだけです。待ち構えていればいいので、攻撃のために長距離を飛行する必要性もありません。
また、交代の兵員もいるので数週間前線で戦ったのち、後方に戻って休息が取れます。
こうして時間が経てば経つほど戦局はアメリカ軍に優位になっていきました。
ガダルカナル島からの日本軍の撤退とその後
(襲撃を受け荷揚げに失敗した輸送船 出典:Wikipedia)
①転進という名の撤退
その後も兵員や物資の輸送計画を経てますが、アメリカ軍の攻撃の前になかなかうまく行きません。
第二次・第三次ソロモン海戦、南太平洋海戦などもありましたが、戦局は好転せず、ガダルカナル島にいる部隊はマラリアや飢えとも戦っていました。
12月31日、ついに日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定。2月には撤退が完了しました。
この際、傷ついたり病気になって動けない兵隊は自決させられました。
大本営はこの撤退を「転進」と発表。これは当初の目的を達したので部隊を移動させた、という意味で国民に事実を知らせないための方便でした。
最終的にガダルカナル島に上陸した日本軍は30000人。うち撤退できたものは10000人、死者行方不明者は20000人にものぼりました。
このうち、戦闘での死者は5000名くらいで残りは餓死とマラリアなどの戦病死だったと言われています。
②その後の戦いへの影響
半年間のガダルカナル島を巡る戦いにおいて、日本軍の航空機の損害はミッドウェーの3倍にもなりました。
これにより、この後の搭乗員の数・練度は著しく低下します。
また大量の輸送船や駆逐艦を失ったことも、日本軍の作戦遂行上大きな打撃になりました。
ガダルカナル島を巡って、アメリカと消耗戦をしてしまったことが日本にとっては取り返しのつかない大失敗になってしまったのです。
これ以降、日本軍は各地で防戦一方になり、敗戦を繰り返すことになります。
まとめ
✔ ガダルカナル島の戦いは日本軍とアメリカ軍による飛行場をめぐる戦いのこと。
✔ 日本軍は、アメリカ軍の反抗規模を見誤り戦力の逐次投入を行ってしまった。
✔ 補給が困難なガダルカナル島では戦死よりも餓死・戦病死の被害が大きかった。
✔ 日本にとって不得意な消耗戦に陥ったため、その後敗戦への道を歩むことに。