第一次世界大戦の中でも重要なきっかけのひとつとなった「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島。
バルカン半島は、もともとオスマン帝国と呼ばれる巨大国家があった場所で、ヨーロッパ諸国へ脅威を与えてきた場所です。
そんなバルカン半島では、様々な民族が入り乱れていたことから、民族同士の対立もあり、常に何が起こるかわからない状態でした。
そこに、近隣諸国の利害関係も絡まっていたのですから、混乱が極まっていたのは教科書を見てもなんとなく雰囲気が伝わってくるのではないでしょうか?
では、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになったのでしょうか。
今回は、「ヨーロッパの火薬庫」について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
ヨーロッパの火薬庫とは
(エンサイクロペディア・ブリタニカが示すバルカン諸国 出典:Wikipedia)
ヨーロッパの火薬庫とは、20世紀最初から第一次世界大戦までのバルカン半島の情勢を言い換えた言葉です。
バルカン半島は東南ヨーロッパにあり、イタリアのすぐ東側のトルコとの間にある場所です。トルコが近いというところから、ヨーロッパから見ると陸の要所といってもよいでしょう。
名前は、バルカン山脈から由来しています。
陸の要所であることから、バルカン半島は多くの民族が入り混じった場所でした。そのため、以下の要因が重なり合って、常に一触即発の状態だったのです。
- オスマン帝国の弱体化
- バルカン半島に住む諸民族が独立を要求
- 民主主義の流れが入ってきた
- 帝国主義諸国の思惑
そのため、他民族が常に対立をしていた情勢と、列強の思惑が絡み合ったバルカン半島の情勢は、ヨーロッパの火薬庫という名前で呼ばれるようになったのです。
ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるまでの経過
(1912年に描かれた風刺画 出典:Wikipedia)
有名な1912年に描かれた風刺画に、「The Boiling point.」と書かれ、「BALKAN TROUBLES」と書かれた大釜の上に、各列強諸国の軍服を着た男性5人(ロシア、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、イギリス、イタリア)が座り、あふれる大釜を必死に抑え込んでいる姿が描かれています。
この風刺画が示すように、バルカン半島では、いつ何が起こるかわからない、まさに火薬庫のような状態だったのです。
では続いて、この風刺画のようにバルカン半島がなぜヨーロッパの火薬庫と呼ばれるまでに至ったのかをお話ししていきます。
ヨーロッパの火薬庫・バルカン半島は他民族が入り混じっていた
この一帯は、オスマン帝国と呼ばれるトルコ系の君主が率いる、他民族国家がありました。
しかし、バルカン半島がヨーロッパの火薬庫と呼ばれていた当時、オスマン帝国が衰退の一途をたどっていました。
それも相まって19世紀以降には、バルカン半島では次々と小国が誕生し、徐々に民主化していました。
しかし、他民族が次々と独立をしていくとなると、国境をどう定めるかというところで問題が勃発していきました。これが、他民族が対立を深めていった大きな理由でもあります。
他民族国家の独立に目を付けた列強諸国
バルカン半島でのオスマン帝国の衰退により他民族国家が次々と生まれていく様子につけ込んで、介入した国があります。
そう、列強と呼ばれているロシアです。
ロシアは、パン・スラヴ主義と呼ばれる、バルカン半島内におけるスラヴ系諸民族の独立と統一を唱え始めるのです。
これに乗じたバルカン半島の小国が、現在のセルビアです。
これをマネするかのように、オーストリア・ハンガリー帝国では、ゲルマン民族の統合を図ろうとするパン・ゲルマン主義を唱え始め、パン・スラヴ主義を唱えるロシアを抑え込もうとします。そして、その後ろ盾にいたのはドイツです。
なぜロシアとドイツが出てくるのか。イギリスは?
当時のロシアとドイツは、植民地を持っていませんでした。列強諸国と呼ばれる巨大国家としては、侵略したいという気持ちが強かったのです。
そのため、バルカン半島内のこうした情勢を、領土拡大のチャンスとしてみていたのです。
さらに当時、ロシアとイギリスは英露協商を結んでいたため、同盟関係にありました。さらにこの2カ国は、フランスとも同盟を結んでおり、いわゆる三国協商の関係にありました。
また、ドイツは1882年にオーストリア・ハンガリー帝国とイタリアの間に三国同盟を結んでいます。
この同盟関係によって、更にバルカン半島内の情勢が複雑化しています。
混乱を極めるオスマン帝国
そんなさなか、1908年には、オスマン帝国内で青年トルコ革命が起こります。
これは、「青年トルコ」という団体が近代化を目指して起こした革命のことで、これによりオスマン帝国はさらに混乱を極めます。
これに乗じて、オスマン帝国の自治領だったブルガリアがオスマン帝国から完全に独立を果たします。
更に、オーストリア・ハンガリー帝国は混乱に乗じて、バルカン半島北西部にあるボスニアとヘルツェゴビナを併合しました。
これに怒ったのが、パン・スラヴ主義を唱えてバルカン半島を狙っていたロシアやセルビアでした。
イタリアの乱入
緊張が高まるバルカン半島内の情勢に、更に乗じてきたのがイタリアです。
イタリアは1911年に、イタリア=トルコ戦争を起こし、トルコから北アフリカのトリポリ・キレナイカを獲得すると同時に植民地化します。
これを見たバルカン半島の小国家は、オスマン帝国を打倒できる!という希望を与えられたのです。
そして、事態は戦争へと転換していきます。
バルカン戦争(1回目)
1912年、パン・スラヴ主義を唱えていたロシアを後ろ盾としたセルビアを始め、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロが加わったバルカン同盟を結成しました。
このバルカン同盟は、オスマン帝国や後ろ盾にいたオーストリア・ハンガリー帝国を打倒するための物でした。
この同盟を利用し、ロシアは領土の拡大を思惑していました。しかし、ロシアの思惑は見事に外れ、バルカン同盟諸国はオスマン帝国に戦争を仕掛けるのです。これにより、バルカン半島の半分以上をオスマン帝国から奪い去りました。
この際に結ばれたのがロンドン条約です。
まだまだ終わらないバルカン戦争
しかし、ロンドン条約での領土分割が原因で、バルカン同盟の中で内紛が起こってしまうのです。
なんと、ブルガリアの分配された領土が多すぎる、というのが原因でした。
これに対して、セルビア・ギリシャ・モンテネグロ、さらにルーマニアや領土を奪われたオスマン帝国が加わってブルガリアに対して宣戦布告!これが、二度目のバルカン戦争です。
ここで、列強諸国の後ろ盾にも変化があります。
- ブルガリアの後ろ盾→オーストリア・ハンガリー帝国(さらにドイツが後ろ盾)
- セルビア・モンテネグロ・ギリシャの後ろ盾→ロシア
- ルーマニア(新たに参戦)
- オスマン帝国
二度目のバルカン戦争の結果とその後
(第二次バルカン戦争中のセルビア軍 出典:Wikipedia)
二度目のバルカン戦争によって、ブルガリアは領土を多く失いました。
さらに、ブルガリアはこれまでロシア側にいたものの、この戦争によってオーストリア・ハンガリー帝国とその後ろ盾のドイツにつくようになりました。
これにより、ドイツはバルカン半島内における新勢力として領地を得るようになったのです。
どうしてかというと、オーストリア・ハンガリー帝国のバックには、同盟関係にあるドイツがついていたからです。
こうして、バルカン半島内では、ロシア側とドイツ側という二大勢力が大きなバックとして据え置かれるようになりました。
さらにバルカン半島の中では、小国同士の紛争が大国間の戦争につながるという、危険な情勢「ヨーロッパの火薬庫」が誕生したのです。
例えば現在も続くコソヴォ紛争も、この第二次バルカン戦争後のセルビアとモンテネグロの割譲が原因となっています。
まとめ
まとめ
✔ ヨーロッパの火薬庫とは、バルカン半島の中の複雑な情勢を比喩した呼び方。
✔ 当時バルカン半島を治めていた多民族国家オスマン帝国の弱体化と、周辺小国の独立、領土を拡大したい列強諸国の思惑が入り乱れていた。
✔ オスマン帝国で起きた青年トルコ革命がきっかけで、オーストリア・ハンガリー帝国やイタリアが動き出し、更にパン・スラヴ主義筆頭のセルビアを中心にバルカン同盟が結ばれ、オスマン帝国に戦争を仕掛ける。
✔ オスマン帝国が敗北。ロンドン条約でバルカン同盟4カ国にオスマン帝国の領地を割譲するも、ブルガリアの領地が多かったことが原因で、第二次バルカン戦争が起こる。
✔ ブルガリアはオーストリア・ハンガリー帝国とドイツ側につくこととなり、バルカン半島内の情勢は一触即発。ヨーロッパの火薬庫という言葉が誕生する。