あなたは「葵の御紋」という言葉は聞いたことがありますか?
もしくは、ご長寿大河ドラマでとても有名な『水戸黄門』のクライマックスシーンで、よく耳にする「この紋所が目に入らぬか!」というあのセリフ。
この時に出される印籠に刻まれた家紋。あれが「葵紋」です。
この「葵紋は」徳川家の家紋として、初代江戸幕府将軍の徳川家康に端を発する家紋で、徳川家康が天下泰平を収めたことで、より権威のある家紋となったのです。
では、この「葵紋」の意味や由来はどういったものなのでしょうか?
今回は、徳川家康の家紋である「葵紋」の由来と、どうして三つ葉葵なのかについて徹底解説していきます。
目次
徳川家康の家紋「葵紋」とは?
(徳川葵(江戸後期) 出典:Wikipedia)
冒頭でもお話の通り、徳川家康の使用していたのは「葵紋(あおいもん)」と呼ばれる「三つ葉葵」の家紋です。
この「三つ葉葵」の家紋ですが、徳川家康だけでなく、それ以降の歴代将軍や関係者も使用しているのは、大河ドラマを見てもよくわかりますよね。
徳川家康に端を発する「三つ葉葵紋」は、「丸に三つ葉葵」を用い、通称「徳川葵」とも呼ばれおり、丸の中に三枚の葵の葉の付け根が、巴紋のように少しカーブしたデザインです。
「葵紋」の意味とは?由来や詳細について
(葵の文様「フタバアオイ」 出典:Wikipedia)
では、この「葵紋」ですが、どの様な意味が込められているのでしょうか?
もともと、葵の文様は、フタバアオイという植物を家紋にあしらったものです。
これは、京都にある加茂神社の神紋が由来になっています。
実は、京都の加茂神社と徳川家康の出身地である三河の国の武士たちは、とても密接な関係があるからとされています。
このため、三河の国の武士たちは、「葵紋」を使用してきたという説が強いというわけです。
徳川家の前身は、松平家です。松平家もこの影響により、葵紋の家紋を使用するようになっています。
なぜ三つ葉葵?三つ葉葵は実際に存在しなかった!?
では、なぜ「三つ葉葵」なのでしょうか?
残念ながら、理由は定かではありません。
しかし、一説によれば「三つ葉葵」は存在しない架空の植物であるとされているんです。
なんでも、フタバアオイ自体がその名の通り二枚の葉をしており、三枚の葉を持つことが稀であるとされています。
さらに、加茂神社の「二葉葵」と徳川家の「三つ葉葵」は、そのデザインがかなり異なるものの、武士が数多く信仰していた八幡宮の新紋が三つ巴紋であることと関連性があるのではないか、という説もあります。
また、家紋としてはフタバアオイをあしらった「葵紋」が古くあり、その後「三つ葉葵」の紋が派生したとも考えられています。
徳川家康は「葵紋」を独占していた!
(徳川家康 出典:Wikipedia)
「葵紋」や「三つ葉葵紋」は、言葉では簡単に表せますが、実はデザインがちょっとずつ異なっており、種類もかなり多いというのはご存じでしたか?
徳川家康ですが、豊臣家を関が原で完全に滅ぼして天下を統一すると、ある行動に出ています。
それは、「葵紋」の独占です。
家紋を独占するというのは、豊臣秀吉の太閤紋の時とソックリですよね。
ですが、豊臣秀吉のパターンとはちょっと違うんです。
①大胆にも、朝廷からの要請を拒否!
天下統一を果たした徳川家康に対して、朝廷は桐紋を使用するように要請します。
桐紋というのは、かつての足利幕府や織田信長、そして豊臣秀吉らに与えられていた家紋のことです。
朝廷は、天皇家の家紋である桐紋を与えることで、その権威を徳川家康に誇示しようと謀ります。
ですが、徳川家康はこの朝廷の要請を大胆にも断るのです!
そして、自分の使用していた葵紋を権威のある家紋にしようとしていくのです。
どういうことかというと、自分の家紋である「葵紋」を、天皇家の桐紋と菊の御紋と同じく、権威のある家紋にしたのです。
②他家に対して葵紋の使用を禁止する!
さらに、ここからが徳川家康の本領が発揮されます。
「葵紋」は、かつて三河の国の武士団が使用していたと説明しましたよね。
三河の武士団の中には、徳川家(松平家)だけでなく、酒井氏や伊奈氏もその中に属していました。
そのため、酒井氏や伊奈氏などといった三河出身のお家も、「葵紋」を使用していたのです。
しかし、江戸幕府開祖の徳川家康以降、この「葵紋」の制限を厳しくしていきます。
なんと、酒井氏や伊奈氏などの三河出身のお家に対して、「葵紋」の使用を禁止するのです。
このようにして、「葵紋」の権威を高めることに成功したのです。
③「葵紋」が使える例外も存在した!
しかし、一概に全員に対してこの禁止令が敷かれたわけではありません。
なんと、この「葵紋」の使用禁止に反対した武士がいます。
それは、徳川家の家臣であり、徳川四天王と呼ばれた本多忠勝です。
(本多忠勝 出典:Wikipedia)
本多忠勝だけは、この徳川家康の要請を拒否します。
本多家は、あの加茂神社の神官が先祖だったという経緯があり、徳川家康に対して文句をつけたんだとか。
これには徳川家康も何も言えず、例外に本多家に対しては「葵紋」の使用を許した、という逸話が残っています。
本多家以外にも、徳川家康の娘を妻に迎えた鳥取池田家も、「葵紋」の一部使用が許可されたんだとか。
そして長野の善光寺は、徳川家康の要請を無視して「葵紋」を使用していたんだとか。
④時代が経つと禁止の制限が強まる
このような例外も最初のうちはありましたが、1723年に徳川吉宗が将軍となった後は、「葵紋」の使用制限がより厳しくなっていくのでした。
なんと、徳川将軍家と徳川御三家(紀州徳川家・尾張徳川家・水戸徳川家)やその一門しか「葵紋」を使用出来なくなってしまうのです。
水戸黄門は水戸徳川家ですので、水戸黄門が使用していた印籠にある「葵紋」の権威がかなり高いことにも、これで納得ですよね。
こうして、「葵紋」は完全に徳川家のシンボルとなり、権威を持たせることに成功したのです。
まとめ
✔ 徳川家康の使用していた家紋は「葵紋」のなかでも、「三つ葉葵」という種類の家紋。
✔ 「葵紋」はかつて京都の加茂神社と三河の武士団と密接な関係があり、三河出身の武士の家系は「葵紋」をしようしていた。
✔ 武神を祭る、武士が数多く信仰していた八幡宮の新紋が三つ巴紋であることと、徳川家の「三つ葉葵」は関連性があるとされている。
✔ 徳川家康は、天下を統一した際に天皇家の家紋と「三つ葉葵」の家紋を同等の権威あるものとしたく、天皇家から下賜を断った。
✔ 徳川家康は、権力誇示のためにこれまで「葵紋」を使用していた他の武家に使用を禁じた。しかし本多家のように、徳川家康が特別に使用を許した家系もある。
✔ しかし、徳川吉宗の時代になると、徳川将軍家と徳川御三家(紀州徳川家・尾張徳川家・水戸徳川家)やその一門しか「葵紋」を使用できなくなる。
✔ このようにして、徳川家は「葵紋」の権威を高めることに成功した。