桶狭間の戦い、姉川の戦い、長篠の戦いなどいろいろな戦に勝ち天下統一(全国を支配)を果たした織田信長。
しかし、織田信長は1番信頼していた部下である明智光秀に裏切られ亡くなってしまいます。
戦国時代を代表する人物である織田信長は一体どのような人生を送っていたのでしょうか?
今回は織田信長の年表と、主な出来事についてご紹介していきます。
織田信長の年表
(織田信長 出典:Wikipedia)
それぞれの違い
- 誕生 1534年5月12日(0歳)
織田信長は織田氏のリーダーである織田信秀の長男(跡取り)として現在の愛知県西半部にある勝幡城で生まれました。
- 元服 1546年(13歳)
元服(元服とは成人を迎える儀式のようなものです)を迎えました。
- 初陣 1547年(14歳)
元服の翌年には初めての戦いとして現在の静岡県の一部を支配していた今川氏との戦いに参加します。
- 結婚 1548年または1549年頃(15歳または16歳)
現在の岐阜県の戦国大名である斎藤道三の娘・濃姫と結婚しました。
- 織田家を継ぐ 1552年3月(19歳)
父の織田信秀が亡くなったため、織田信長は後を継ぎ織田氏のリーダーとなりました。
- 清須城に住む 1555年(21歳)
対立していた織田信友に勝ち、清須城(現在の愛知県清須市にある城)に移り住みます。
- 稲生の戦い 1556年11月(22歳)
もともと織田家のリーダーになりたがっていた弟の織田信行と対立します。戦の結果、織田信長は織田信行に勝つことができました。
- 桶狭間の戦い 1560年5月(26歳)
織田信長の土地である現在の愛知県に侵入してきた戦国大名・今川義元との戦に勝ちます。
- 清洲同盟を結ぶ 1562年(28歳)
徳川家康と手を結び(同盟を結び)ました。これは清州同盟と言われています。
- 浅井氏と同盟を結ぶ 1567年9月または1568年早々(32歳または33歳)
妹・お市を浅井長政と結婚させます。これによって織田氏と浅井氏は手を結ぶ(同盟を結ぶ)こととなりました。
- 足利義昭と仲良くなる 1568年9月7日(35歳)
室町幕府の将軍になること、京都に行くことを目指していた足利義昭と仲良くなり、足利義昭とともに織田信長は京都に行きます。その後、織田信長は足利義昭の将軍就任の手助けを行いました。
- 御所を建てる 1569年1月(36歳)
室町幕府の将軍となった足利義昭のために大きな御所(御所とは身分の高い人の家のこと)を建てます。これによって織田信長は足利義昭とますます仲良くなることができました。
- 姉川の戦い 1570年6月(37歳)
織田信長は朝倉義景という人物と仲が良くありませんでした。そんな朝倉義景と、織田信長を裏切り朝倉義景に味方した浅井氏との戦いに勝ちます。この戦いは姉川の戦いと呼ばれています。
- 延暦寺焼き討ち 1571年9月(38歳)
姉川の戦いに負けた朝倉氏と浅井氏は比叡山延暦寺(現在の京都と滋賀県の間にあるお寺)に逃げ込みました。織田信長は比叡山延暦寺に逃げ込んだ朝倉氏、浅井氏を倒すため延暦寺に火をつけました。
- 室町幕府の滅亡 1573年7月(40歳)
仲の良かった室町幕府の将軍・足利義昭と対立し戦を起こします。戦いの結果、足利義昭を京都から追い出すこととなりました。室町幕府の将軍である足利義昭が京都から追い出されたことによって室町幕府は滅びてしまいました。
- 長篠の戦い 1575年4月(42歳)
織田氏、徳川氏の土地に勝手に入ってきた現在の山梨県を支配する武田氏と戦いを起こし、結果、武田氏に勝ちます。この戦いは長篠の戦いと呼ばれています。
- 安土城を建てる 1576年1月(43歳)
天下人(全国を支配した人物)となった織田信長は滋賀県にある琵琶湖の近くに安土城を建てました。
- 本能寺の変 1582年5月(49歳)
自分の部下である明智光秀に裏切られ49歳で亡くなりました。本能寺で亡くなったことから本能寺の変と呼ばれています。
年表で紹介した主な出来事の紹介します!
①桶狭間の戦い
1560年5月、織田信長は現在の静岡県の一部を支配していた今川義元との戦いに勝ちました。
この戦いは桶狭間の戦いと呼ばれています。
(桶狭間の戦い 出典:Wikipedia)
当時、静岡県の一部の他に現在の静岡県西部、現在の愛知県東半部を支配していた今川義元は織田信長の土地である現在の愛知県西半部を次に支配しようとしていました。
その時、今川義元は2万5千もの多くの兵を連れ織田信長の軍に攻撃してきたとされています。
それに対し、織田信長は5000人といった数少ない兵で今川義元に奇襲(不意をついた攻撃)をしかけ、今川義元に勝つことができました。
この奇襲は日本三大奇襲の1つとして知られています。
桶狭間の戦い後、織田信長は今川氏の支配から解かれた徳川家康と手を結ぶこととなりました。(清洲同盟)
②姉川の戦い
1570年、朝倉・浅井連合軍と戦を起こします。この戦いは姉川の戦いと呼ばれています。
(史跡姉川古戦場 出典:Wikipedia)
1570年4月、織田信長はもともと仲の悪かった朝倉氏を倒すため朝倉氏の土地である現在の福井県越前市へと出陣しました。
この時、妹・お市と結婚した浅井長政も朝倉氏との戦に参加するはずでした。
しかし、敵である朝倉氏に味方し織田信長に攻撃をしてきたため織田信長は金ヶ崎の戦いで1度負けてしまいました。
1570年6月、織田信長は同盟国である徳川氏とともに朝倉・浅井氏を倒すため挙兵しました。
戦いの結果、織田・徳川軍は朝倉・浅井連合軍に勝つことができました。
③室町幕府の滅亡
織田信長は1568年9月7日、室町幕府の将軍になること、京都に行くことを目標にしていた足利義昭に協力し京都に行きます。
(足利義昭 出典:Wikipedia)
その後、足利義昭の将軍就任に協力、足利義昭のために御所(御所とは身分の高い人の家のこと)を建てるなど将軍となった足利義昭とさらに仲良くなりました。
しかし、天下統一(全国の支配)を目指す織田信長と足利義昭は考え方の違いから次第に仲が悪くなり、ついには口もきかないような仲となり2人は争う形となりました。
1573年7月、仲の悪くなった織田信長と足利義昭は戦を始め、その結果、織田信長は足利義昭に勝つことができました。
織田信長に負けを認めた足利義昭は京都から追い出されることとなり、これによって室町幕府は滅びる結果となりました。
④長篠の戦い
足利義昭を京都から追い出した織田信長は天下人(日本全土を統一した人物)となりました。
この時、織田信長の土地と徳川家康の土地には現在の山梨県を支配していた武田氏が侵入を繰り返し行っていました。
しかし、1573年、武田氏のリーダー・武田信玄が亡くなったことで、織田信長の土地、徳川家康の土地への侵入は一時停止されます。
1573年8月、武田氏の家来である奥平信昌が武田氏を裏切り、敵である徳川氏に味方します。
この頃、亡くなった武田信玄の息子・武田勝頼は武田氏のリーダーとなっており、徳川氏に味方した奥平信昌を倒すため1575年4月、たくさんの兵を連れ徳川家康の土地である現在の愛知県東半部に攻撃をしかけました。
武田氏を裏切り、敵である徳川方に味方した奥平信昌は長篠城(徳川氏の城)におり、武田軍は長篠城を攻撃します。
(長篠合戦図屏風 出典:Wikipedia)
織田信長も武田氏と争っていた徳川氏の手助けを行い、これによって織田・徳川連合軍、武田軍の戦いが始まりました。
この戦いは長篠の戦いと呼ばれ、馬防柵(敵の攻撃を防ぐための柵)の設置や火縄銃を使った織田軍の活躍により、織田・徳川連合軍は武田氏に勝つことができました。
⑤本能寺の変
さらに全国の支配を進めていた織田信長は1582年5月、現在の岡山県西部にある毛利輝元の城・高松城を攻めていた部下の羽紫秀吉(後の豊臣秀吉)から戦の協力を求められます。
この羽紫秀吉(後の豊臣秀吉)からの頼みを受けた織田信長は数人の身の回りのお世話をする少年とともに京都へと向かいました。
京都についた織田信長たちは本能寺と呼ばれる寺で泊ることとなります。
羽紫秀吉は織田信長の他に、織田信長の部下である明智光秀にも戦の協力を求めていました。
明智光秀は羽紫秀吉の頼みを1度受けましたが、その明智光秀が突然、織田信長と羽紫秀吉を裏切り1582年6月2日、織田信長が泊まっている本能寺に火をつけたのでした。
織田信長は必死に明智光秀と戦いましたが、最終的には自害(自殺)したとされています。
(本能寺焼討之図 出典:Wikipedia)
織田信長は49歳で亡くなりました。
まとめ
✔ 織田信長は現在の愛知県西半部(尾張国)で生まれた。
✔ 織田信長の妻は斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)。
✔ 織田信長の有名な戦いは稲生の戦い、桶狭間の戦い、姉川の戦い、長篠の戦い。
✔ 室町幕府の将軍である足利義昭を京都から追い出し、室町幕府を滅亡させた。
✔ 1番信頼していた部下の明智光秀に裏切られ49歳で亡くなった。(本能寺の変)