女房・侍女・側女・腰元といえばいずれも聞いたことのある言葉ではありますね。
ただし、本来の意味や使い方など正しく理解できているとは言い難いかもしれません。
ここでそれぞれの意味についてしっかりとみていきましょう。
目次
女房・侍女・側女・腰元の違い
「女房(にょうぼう)」「侍女(じじょ)」「側女(そばめ)」「腰元(こしもと)」。いずれも女性の役職・立場を表している言葉です。
「女房」「侍女」「腰元」は以下のように使用人のことを指しています。
✔「女房」・・・朝廷で私室をもらうくらいの高位の女官のこと
✔「侍女」・・・高貴な女性の身の回りの世話をする使用人のこと
✔「腰元」・・・「侍女」とほぼ同義で使われている
「側女」だけは少し意味合いが異なり、本妻以外の妻のことを表す言葉になります。
これだけではザックリしすぎていてわかりずらいと思いますので、ここからはそれぞれについて詳しく解説していきます。
女房について詳しく解説!
よく普段の会話の中で「うちの女房が~」などと男性が話すのは聞いたことがありますね。
一見非常に身近な言葉ですが、本来は一般の人が軽々しく口にすることのできない言葉だったかもしれません。
①「女房」の由来と立場
「女房」の「房」ですが、これは『部屋』のような個の空間を表しています。
現在でも、公共の空間である【堂】に対する言葉として【房】を使うこともあるようですが、例えば【食堂】に対した【厨房】がそのような感じでしょうか。
近年はオープンキッチンのお店のように、厨房が開かれてしまっている場もあるので少しわかりにくい面もありますね。
この『部屋』を与えられるような位の高い女官、高貴な方に仕える女性を指す言葉として「女房」が使われていました。
つまり、「女房」は職業婦人だったのです。
内裏にて天皇に直接仕える人もいましたが、私たちが歴史の中でよく聞く「女房」たちは天皇の妃やその実家に仕えた人で、有名や清少納言は藤原定子中宮に、紫式部は藤原彰子皇后に仕えていたことは知られていますね。
ちなみに高位の女官ですので、衣食住の世話などの仕事はしてはいないようです。
②大きな影響力
先に挙げた2人の有名人をはじめ、特に平安時代の「女房」たちはその文化にも大きな影響を与えました。
平安期の国風文化を語る上で外せない「かな文字」ですが、これは知識豊富な「女房」たちが生み出し発展させていきました。
彼女たちは元々地方の役人階級の子女達ですが、その中でも特に教養に優れた人々を集めたとされています。
天皇の妃が多く住む後宮の中で、より多く天皇に通ってもらい、わが娘に子を成してもらいたいと考えた貴族たちは、天皇の気を引くためにも彼女たちの才能と生み出す作品を利用していきました。
特に摂関政治で最も知られている藤原道長の長女、彰子皇后の下には『源氏物語』の紫式部を始め、歌人としても有名な和泉式部、百人一首の“古の奈良の都の八重桜、けふ九重ににほひぬる哉”の句で有名な伊勢大輔など多くの有名女流文化人が仕えていたようです。
『源氏物語』は現在でも日本のみならず多くの国で翻訳されて読まれています。
1000年以上前に作られた作品がここまで愛されているのは凄いことですね。
③その後の「女房」
平安期以降も、宮中に仕える女官としての「女房」は存在しますが、徐々に意味合いを変えていきます。
元々お妃に仕える使用人としての立場から、近世では主人のお手がついて子を持つとほぼ側室と同等の扱いの「家女房」という言葉もでてきました。
そして現代は妻(正妻)を指しています。
一夫多妻制ではないので微妙ではありますが、時代がたつにつれて「女房」という言葉の持つ身分が上がっているような感じがしますね。
また、仕事における伴侶的立場を表す「女房役」みたいな言い方は今もしています。
例えば、野球のピッチャーに対してキャッチャー、総理大臣に対して官房長官などをそのように呼んでいます。
侍女について詳しく解説!
これら女性の職の位置関係を見ますと、上から女官⇒侍女⇒雑仕女(ぞうしめ)という感じでしょうか。
「侍女」とは使用人の中でも高貴なご婦人の身の回りのお世話をする人を指しています。
①「侍女」のお仕事
古代から明治期には朝廷で男性の「侍従:じじゅう」に対する女性の役職として「侍女」がいました。
「侍従」が秘書のような側近のことを指しているので、こちらもお化粧など女性ならではの身の回りのお世話をしていたと思われます。
「侍女」は朝廷以外にも貴族そして大名の正室などに仕えていました。武家では行儀見習いとして一族の子女を仕えさせたりしていたようです。
ちなみに実際のさまざまな家事をする使用人は雑仕女(ぞうしめ)と呼ばれていましたが、こちらは皇族には直接会えない立場の上、基本的には無位でした。
ただ、見目麗しい人は高貴な人に見染められることもあり、九条院の雑仕女をしていた常盤御前が源義朝に寵愛されて義経らを産んだことは知られています。
②今の「侍女」
現在でも宮内庁の特別職として各宮家のお妃に「侍女長」が1人ずつおります。
当然1人では足りませんので宮家で私的に「侍女」と呼ばれるお手伝いを雇っているようです。
こちらはどこまでのお仕事かは分かりませんが、お手伝いさんなので、身の回りから家事全般が含まれるのかもしれませんね。
③海外の「侍女」
余談ではありますが、ヨーロッパにも「侍女」に相当する階級がありました。
貴族に雇われているのは同様ですが、賃金ではなく住まいや食事を報酬として受け取っていました。
主人の付き添いでの旅行等にも行っていたらしく、社会的地位も“召使い”より高かったと言われています。
また、よく聞くメイドは18世紀以降に家事使用人として雇われていた人の事ですので、「侍女」とは違います。
腰元について詳しく解説!
「腰元」というとTVで見るバラエティー番組の殿様やお姫様に仕える女性達を浮かべる人が多いと思いますが、彼女たちが本当に「腰元」なのでしょうか。
①「侍女」と「腰元」
「侍女」と「腰元」は同じように高貴な人々に仕え身の回りのお世話をする人といわれます。
特に【腰元】とは腰回りを表す言葉でもあるので、より身近な仕事をする人…という印象のようですが、実際はほぼ同義で定義されています。
②元々の意味と誤解
本来「腰元」とは上流の商家に仕えた「侍女」のことや、遊女宿で主人の雑用をこなす人を指していました。
TV等にみられる武家の御屋敷や大奥などで雑用をこなす女性らは正式には「奥女中:おくじょちゅう」と呼ばれていました。
この人たちのことを「腰元」と呼んでいるようなのですが、これは芝居やメディアの影響が大きかったそうです。
辞書などでは現在はほぼ同義になっていますね。
側女について詳しく解説!
「女房」「侍女」「腰元」は元々の役割は使用人ですが、その後主人の寵愛を頂き、子を成した場合になる可能性があったのが、本妻以外の“妻”としての役割を持つ「側女」となります。
①正室と側室
公家や大名などの身分の高い家の本妻のことを「正室」といい、この「正室」以外の妻のことを「側室」といいますが、「側室」の別の呼びかたが「側女」や「妾」となります。
「側女」の仕事は子供をたくさん産んで家を絶やさないことでした。
よって、正室に子がいない場合には跡継ぎのいる側室が大きな力を得ていました。
豊臣秀頼の母である淀殿などが有名ですね。江戸期にはその権力をめぐって大奥にて沢山争いが起きていましたね。
ちなみに天皇の妃の場合は、律令下では皇后⇒妃⇒夫人など、そして平安期以降は皇后⇒中宮⇒女御などのその地位に応じた名称で呼ばれ、「側室」とした呼び方はしてないようです。
追加知識ではありますが、「正室」「側室」と同じような言葉で「継室:けいしつ」という言葉があります。
これは「正室」の亡くなった後に新たに正妻として迎えた妻のことです。
例えば徳川家康は正妻の築山殿を失った後、豊臣秀吉の妹旭をむかえて、彼女は駿河御前と呼ばれていました。
②その役割と近年の状況
近年になるまで、「妾」はある程度容認されていました。
明治期には法律でも一時的に「妾」の存在が認められていたこともありました。
戦後でも力のある男性は正妻公認で「妾」をもっていました。
経済的な支援も伴うため、以前は男性の甲斐性などとして容認されていた点もあったようです。
現在日本では重婚は罪になりますし、倫理的にもあまりよしとはされていないですね。
まとめ
✔ 「女房」は朝廷で私室をもらうくらいの高位の女官のこと指していた。
✔ 平安期の「女房」はかな文字を作り出し、国風文化の担い手となっていた。
✔ 「女房」は現在では妻(本妻)をあらわしている。
✔ 「侍女」は高貴な女性の身の回りの世話をする使用人のこと。
✔ 「侍女」という言葉は現在では、宮家の私的お手伝いの事を指している。
✔ 「腰元」は本来商家の「侍女」などを指していたが、武家でも同様の仕事をしている「奥女中」の意と同じのようになった。
✔ 「女房」「侍女」「腰元」は元は使用人だが、主人の寵愛を受けて「側女」となることもあった。
✔ 「側女」は正妻とは別の跡継ぎを残すための妻のことを指している。
✔ 「妾」が「側女」と同意であるが、現憲法下で重婚は罪であることからも、「妾」は近年では表立っては容認されてはいない。