【大正デモクラシーとは】簡単にわかりやすく解説!!国民主体を主張する運動!

 

近現代史では社会の変化、思想の変化、そして制度が新たにできる動きが多くある年代でもあります。

 

教科書を読んでもなんとなくわかるけど、いまいち理解ができないというところも多いと思います。

 

今回は近現代史において絶対に外せないマスト事項の大正デモクラシーをわかりやすく解説していきます。

 

大正デモクラシーとは

 

大正デモクラシーとは、1910年代から1920年代にかけての10年間行われた、政治・社会・文化の各分野において民主主義的な運動のことを指します。

 

※何年から何年を大正デモクラシーとするのかは諸説あります。

 

Democracy(デモクラシー)とは訳すと民主主義と訳されます。民主主義の意味に関しては後ほど説明いたします。

 

大正デモクラシーが起こった背景

それは、時代の変化、生活の変化、社会の変化からより自由を求めるようになったから!

 

日本の歴史において、長かった徳川の時代が終わり、江戸時代から明治時代、そして大正時代と変化していく中で国を動かす政治の体制や宗教、社会や人々の暮らしなど大きく変わってきました。

 

人々は仕事に就いて給料をもらったり、世の中を変えようと新しい社会の制度をつくったりなどです!

 

また時代の変化とともに、選挙制度ができたり、言論の自由、思想の自由、集会の自由などいろいろな分野における自由が求められるようになりました。男女平等などです。

 

今までの日本の世の中と言えば、戦国時代と比較するとわかりやすいですよね。

 

女性は男性より下に見られたり、政治の主導権は男性でなくてはならない、女性は家事をする、男性は外に出て仕事をする(戦国時代においては合戦に出向くなど)、将軍のいうことは絶対、身分の違いも明確でした。

 

 

 

が!時代とともに、諸外国との国交や同盟なども影響し、次第に民主主義的な考え方(前述)、資本主義(利益を求めることを基本とした考え方)が発展していったという背景があります。

 

資本主義の考え方によって、市場のものの価格、働くという概念も変わってきたのです。

 

働く人はもっと賃金をあげてほしい、雇い主は安く人材を確保したいと思いますよね。

 

労働者の不満がつのれば、ストライキをして賃金をあげてほしい、みんなで団結して賃金をあげてもらえるようにしよう、などという運動がはじまるわけですね。

 

そういった世の中で、いろいろな考え方の人ができくるのは当たり前です。

 

いろいろな団体が作られ、同じ考えの人々同士が集まって運動をおこし世の中を変えていきたいという運動につながったのです。

 

大正デモクラシーの中心人物は、吉野作造!

(吉野作造 出典:Wikipedia

 

 

前述したように大正デモクラシーとは政治、社会、文化、などの分野でいろいろな民主主義的な権利を求めた運動と説明しました。

 

その中でも政治的な運動で中心人物になったのは、この人【吉野作造】。

 

ではこの吉野作造とは何をどうした人で有名なのかみていきましょう。

 

吉野作造とはどんな人?

現在の東京大学の前進、帝国大学に先生として在籍していました。

 

吉野作造は大正時代、このデモクラシーの時期に活躍した政治学者、思想家です。具体的に何をしたのか、というと【民本主義】を重んじた思想家で、吉野さんの考え方はこう。

 

「いかにして国民が良い政治の主体となるのではなく、いかに良い指導者を選択し監督するかという点である」

 

すなわち、これは現在の選挙制度の考え方なのです。

 

噛み砕いて説明すると・・・今でこそ当たり前の選挙ですが、昔はそうではなかったのです。

 

これも江戸時代をみてみましょう。

 

徳川家はとてもわかりやすいですよね。世襲制です。選ばれるというのではなく、その家系に生まれたら否応なしに、農民だし、否応なしに将軍家だし、否応なしに商売人だし、ということでした。そもそも昔の人々は選挙などということは考えつかなかったのでしょう。

 

選挙をして政治の代表となる人を選ぶという考え方がなかったのですね。

 

そのため吉野さんは、それではいけない!国というのは国民で成り立っているのだからもっと国民が政治に参加するべきだ!と言いだしたのです。

 

吉野作造の民本主義とは民主主義とは違う

 

 

ここで気をつけたいのが民主主義と民本主義の二つ。

 

似たような言葉ですが意味が違うのです。

 

①民主主義

欧米から入ってきた考え方であり、国民に主導権があるという意味が含まれた考え方。

 

②民本主義

日本では憲法で天皇主権がうたわれていたため、民主主義を唱えることは日本では不可能です。

 

現在の憲法では日本国憲法では国民主権ですが、昔の憲法、大日本帝国憲法においては天皇主権でした。

 

 

そのためこの欧米の考え方の“国民主権”を主張することは憲法違反となったため、吉野さんは【民本主義】を唱えたのです。

 

この民本主義とは、国民の意向に基づく政党や議会を中心に政治を行おう!という民主主義的な考え方の意味を含めた上で、主権は天皇にありますよ、ということなのです。

 

大正デモクラシーのその他の社会運動は?

選挙制度や政治についての運動を行った東京大学の吉野さん、また同大学の美濃部達吉、中央大学、早稲田大学出身者など大学出身者の多くが発言をしたり思想の提唱をしたりしました。

 

今の世の中でもそうですが、ある意見を主張すると必ず反対意見がでますよね。

 

当時も同じように、反対意見やまた新たな意見がでたりとさまざまでした。

 

では実際にどんな事が起こったのでしょうか?

 

米騒動

シベリア出兵を見込んだ米商人が米を買い占めた事が原因で起こった騒動のことです。

 

 

どうして出兵で米?となると思いますが、戦争となれば国をあげての一大事。

 

そうなると兵のための食糧として米が必須になり、売れる、米問屋は米が売れれば儲かる、ということで米屋は国に対して売るために米を市場に出し惜しみしたわけですね。

 

そうなるとどうなるか、市場に出回る米が少なくなり、米の価値があがる、そうなると庶民では購入できない価格になる、そこで、米問屋と住民との間で騒動が起こるという流れになります。

 

一昔ではこのような米騒動は考えられないものでした。庶民が商人と衝突をする、なんていうこともありえませんでした。

 

このような騒動を一つとっても自分の意見や意思を表に出すという表現の自由が尊重されているということがわかります。

 

これが大正デモクラシーなのです。

 

大正デモクラシーと『灯台もと暗し』

ちょっと小話。大正デモクラシーと『灯台下暗し』。響きが似ていますね。

 

当たり前ですが、二つの言葉は似ていますが、単に響きが似ていることなので、本来の意味が似ているということでありません。

 

ただ、どうしても大正デモクラシーということばが覚えられない人は・・・

 

『灯台もと暗し―!!!』と覚えてもいいかもしれませんね(笑)

 

まとめ

 大正デモクラシーとは、国民主体となる政治や表現の自由、思想の自由を求めた人民の動きの総称。

 大正デモクラシーが起こる背景は、時代の変化による人々の考え方が激変したことによるものであり、もっと国民が政治に絡んで国を良くしていこう!と考えるようになったから。

 中心人物は大学の教授など影響力が強い人たちが中心となった

 大学の教授で、民本主義、政治は国民全体のために国民によりやるべきだ!選挙を通じて参加するべきだ!と唱えた吉野作造。

 代表的な運動として米騒動がわかりやすく、身分を飛び越えて同じ思想の人々が結束して目的のために運動を起こすという大正デモクラシーを象徴する運動があった