江戸幕府がその基礎を固めつつある時期、農民を統制するための御触書「慶安の御触書」が諸国に広まりました。
今回は、この『慶安の御触書(けいあんのおふれがき)』についてわかりやすく解説します。
目次
慶安の御触書とは?
慶安の御触書とは、1649年(慶安2年)に幕府によって出された農民統制のための御触書のことです。
御触書とは、幕府や藩主から一般民衆に知らせるための文書のこと。慶安の御触書は、32か条と奥書(おくがき)から成っています。
原本はなく、誰かが書写した本である写本が残っています。そこには百姓の贅沢をいさめ、農業に精を出すようにといった内容が書かれています。
以前は、幕府の出した法令という見方が強かったのですが、現在では製作者や製作時期の由来が偽られている偽書(ぎしょ)という見方が強くなっており、歴史の教科書でも幕府が出した法令という紹介はされなくなりました。
慶安の御触書が出された背景
このような御触書が出された背景には、何があったのでしょうか。
①徳川3代将軍による江戸幕府体制の完成
御触書が出されたとされるのは1649年。1603年に江戸幕府が開かれてから、50年近く経っていました。
その間、江戸幕府を開いた徳川家康と2代将軍秀忠、3代将軍家光は、江戸幕府の土台を築き国内の安定を確かなものにすべく、様々な法令を作っていきました。
秀忠の時代には、豊臣家との争いを終結した大阪冬の陣、大阪夏の陣があります。
キリスト教を禁じた禁教令、武家を統制する武家諸法度、天皇と公家を統制する禁中並公家諸法度が出されました。
そして、3代将軍徳川家光時代には何度も鎖国令が出されて鎖国体制を完成させ、その後長期間に渡る江戸の安泰を作り出しました。
また、島原の乱を鎮めたり、参勤交代制度も作りました。
②寛永の大飢饉
家光の時代、1640年から43年の間に寛永の大飢饉が起こります。
1640年以前にも凶作や飢饉はありましたが、1640年に北海道の駒ケ岳が噴火し、大量の灰が降ったことで津軽地方(現在の青森県)が凶作となりました。
それを皮切りに1641年に入ると畿内、中国、四国地方で旱魃が起こり、北陸では大雨、冷風で凶作となりました。その後、大雨洪水、旱魃、霜、虫害といった異常気象が全国的に広がりました。
1642年には飢饉は最大規模となり、百姓が農業を捨てて都市部へ流れ出る逃散(ちょうさん)という現象が見られました。また、農民の身売りなども見られ、家光は諸国に対して飢饉対策をするように命じます。
③御触書の発令とその目的
島原の乱や寛永の飢饉は、幕府の農民政策に大きな影響を与えます。
寛永の飢饉の後、1643年に田畑永代売買禁止令を出し、田畑の売買を禁止しました。これは、飢饉による百姓の没落を抑える目的がありました。
それから6年後、1649年 慶安の御触書が出されたとされます。
御触書は農民の生活を統制するものでしたが、小農民の経営を維持させるために農業経営のあり方や農民生活のあり方を説いています。
自給自足を強調するだけでなく、年貢を納めた上で経営を維持するために商いをすることも書かれています。
商売をすることで農業経営を成り立たせるという概念がすでにあったのです。
慶安の御触書の内容
それでは、御触書の内容はどのようなものだったのでしょうか。主な内容を紹介します。
①村の人間関係について
-幕府の言いつけはよく守り、村を治める地頭や代官のことをおろそかにせず、名主(村の長)や組頭(名主の補佐役)は本当の親のように思い、大切にしなさい。
-独身の百姓が病気になって田畑の仕事ができないようになったら、五人組や村中の百姓たちが助け合って田畑を荒らさないようにしなさい。
②農作業について
-朝は早起きをして田畑の草を刈り、昼は田畑を耕し、夜には縄をなったり俵を編むなど、それぞれの仕事を油断なく行うこと。
-収穫の秋の後、妻子に米をたくさん食べさせてしまい米がなくなって困る者が多い。いつも米が少なくなる正月二月三月の気持ちで過ごして、食べ物を大切にすること。また、米以外に麦や粟やヒエ、大根の葉っぱなど色々なものを作り、米がなくなっても困らないようにしなさい。小豆の葉っぱや芋の葉っぱなども捨てずに大事に使いなさい。
③衣食について
-酒や茶を買って飲んではいけない。(自分で作ること)
-たばこを吸ってはいけない。これは腹の足しにもならず、病気になるだけだし、お金もかかるし、火事のもとになるものだから。
-衣類は、木綿以外のものを着ないように。
④家族について
-男は畑仕事、女は布を織るなど、一日しっかりと働き夫婦ともしっかりと稼ぐこと。美人の女房でも、夫をおろそかにしたり、お茶ばかり飲んでいたり遊んでばかりいたら、離婚しなさい。
-年老いた親は大事にして孝行しなさい。年貢さえ済ませてしまえば、百姓ほど楽なものはないのだから、このことを子どもや孫にもよく言い聞かせ、健康でぜいたくをしないでかせぐべきである。
⑤農民生活の全般に渡る御触書
内容を見ますと、農民の生活について事細かに書かれていることわかります。離婚の勧めまで書かれてあり、とにかくよく働き、食べ物を大切にすることを推奨していることがわかります。
飢饉の影響もあり、田畑を荒らさないようにということや、子どもや孫に百姓の仕事を続けていくようにと、農業離れを防ぐ対策にもなっています。
慶安の御触書の存在は嘘?どこで・誰によって書かれた?
実際に慶安の御触書は存在していたのでしょうか。慶安の御触書に対する最近の見方を紹介します。
①御触書はニセ?
実は、慶安の御触書の原本は発見されていません。
明治期に司法により編纂された幕府法令集「徳川禁令考」に収録されたことで、幕府の法令という見方が広まりました。
昭和戦後には、江戸時代に幕府が農民統制をした史料として注目され、歴史教科書にも紹介されていました。
ところが、江戸幕府が出した法令をまとめた法令集「御触書集成」などに収録されていないことを根拠に、幕府が出した御触書ということに疑問を持つ見方がありました。
②誰によって書かれたのか?
それでは、どうしてこうした「御触書」が広く普及したのでしょか。
写本は残されていますので、誰かが書いたものであることは確かです。しかし、誰が書いたのかはわかっていません。
最近では史料調査が進み、甲信地方で広まっていた農民教諭書「百姓身持之事」が、1697年に甲斐国(現在の山梨県)の甲府藩で「百姓身持之覚書」として成文化されたものが、木版印刷で諸国へ広まり幕府からの御触書となったのではないかと考えられています。
まとめ
✔ 慶安の御触書は、32か条からなる農民統制のための御触書である。
✔ 3代将軍徳川家光の時期、1649年に出されたとされている。
✔ 農民生活における、農作業の推奨や倹約、田畑や食べ物を大切にすることなど事細かに指示が書かれている。
✔ 原本が発見されておらず、近年は、幕府からの御触書とは考えられていない。
✔ 慶安の御触書の元は、甲府藩で出された農民教諭書「百姓身持之覚書」ではないかと考えられている。