【GHQとは】簡単にわかりやすく解説!!マッカーサーの行った政策・改革について

 

戦後の日本の未来を決めたGHQ。

 

このGHQという組織は日本の民主化の動きを作り、その後の日本に大きな影響をもたらしました。

 

今回はそんな『GHQ』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

GHQとは?

(GHQ総司令官マッカーサーと昭和天皇 出典:Wikipedia

 

 

GHQとは日本が敗戦した1945年(昭和20年)からサンフランシスコ平和条約が行われる1952年(昭和27年)まで日本にあったアメリカ中心の連合国によって日本を占領する連合国最高司令部(General Headquarters)のことです。

 

このGHQが日本の政治を動かすことになり、戦後の日本の民主化を推し進めていきました。

 

GHQができるまでの流れ

(1945年 ポツダム会談の様子 出典:Wikipedia)

①ポツダム会談とポツダム宣言

1945年7月、ベルリン郊外のポツダムで降伏しかけていた日本の戦後処理について話し合ったポツダム会談が開かれました。

 

ここで日本は無条件降伏し、戦争ができなくなるまでのしばらくの間連合国によって占領することが決定します。

 

ちなみに最初の方はドイツのようにアメリカ・中国・イギリス・ソ連の4国によって軍事占領される見込みでしたが、アメリカのトルーマン大統領が土壇場でソ連を敵対視し始めアメリカ中心の間接統治という形に変更されました。

 

もし仮に4国の軍事占領になっていたら、もしかしたらドイツのように2国に分断していたかもしれません。

 

そして8月15日に日本はポツダム宣言を受諾9月2日に無条件降伏し第二次世界大戦は終わりを迎えました。

 

②GHQの設立

こうして敗戦した日本。

 

連合国はポツダム宣言の内容に沿うように日本を占領する組織である極東委員会が設立されます。

 

これはアメリカやイギリスなどの連合国が日本をどう統治していくかを会議する組織で、GHQはその会議で決まった意見に従って日本で実際に政策を行う組織として誕生しました。

 

日本政府は、存続は許されたもののGHQの意見には絶対に逆らうことができなくなり、簡単に言えば従属国としての立場を取らなくてはいけなくなってしまいました。

 

ちなみに本部は第一生命館のオフィスをそのまま使っており、GHQの総司令官はあの厚木飛行場の写真が有名であるダグラス・マッカーサーです。

 

GHQ building circa 1950.JPG

(連合国軍最高司令官総司令部"第一生命館" 出典:Wikipedia)

 

GHQの行なった政策(改革)

(東京裁判 出典:Wikipedia)

①東京裁判と公職追放

GHQの最大の課題であり、最大の目的が日本の非軍事化でした。

 

GHQからすれば日本に軍事能力があれば再び軍国主義となってアメリカにはむかう可能性があるかもしれない。

 

そこでGHQは第二次世界大戦で日本を主導していた軍人や政治家などを逮捕して軍事裁判にかけました。これを極東国際軍事裁判(東京裁判)といいます。

 

この裁判によって東條英機を始め7名が死刑、16名が終身刑となりました。

 

 

(東京裁判 被告席の様子 出典:Wikipedia)

 

また、戦時中に大政翼賛会に加担した人もGHQによって議員になることなどの社会の表舞台立てなくしてしまう公職追放も行われ、25万人が処罰されました。

 

②日本国憲法と非軍事化

1946年、GHQは軍事的要素が強く、さらに天皇中心の憲法であった大日本帝国憲法に変わり、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重を基本とする日本国憲法を作成するように日本政府に命令します。

 

日本政府はGHQの意向を受けながら1946年に公布、翌年には施行され今の憲法が完成しました。

 

また、この憲法の第9条には戦争の放棄が書かれているように日本はこれから軍を持つことが禁止されました。

 

③経済の民主化と改革

GHQは日本が完全に民主化できるように経済や農業の改革をどんどん推し進めていきます。

 

その中でもマッカーサーが特に日本政府に推し進めるべき「婦人参政権」「労働組合法の制定」「教育制度改革」「圧政的な法制度の撤廃」「経済の民主化」の5つの主な改革を指令のことを五体改革指令といいます。

 

さらにGHQはこれまで日本の農業を支えていた地主の勢力をなくすために、農地改革を開始。これによってこれまで地主の下で働いていた小作人に土地が分配され、小作人たちは自由になりました。

 

一方、経済の方では戦前の日本の経済を握っていた財閥(三菱・三井・住友・安田)を解体。さらに独占禁止法を制定してアメリカみたいな経済の民主化を推し進めました。

 

アメリカとしては日本の力を無くすための政策だったそうですが、この政策のお陰で日本はソニーやホンダなどの戦後新しくできた企業の力が伸び始め経済大国となっていくことになる一因となるのです。

 

④教育改革

GHQは戦後の日本に適応できるように教育改革も行います。

 

この改革によって日本は小学校6年・中学校3年・高校3年・大学4年になり、そのうち小学校と中学校を義務教育とする学校制度が新しく設けられ今に続くスタイルが完成しました。

 

また戦前には必ず覚えなければいけなかった教育勅語も廃止され、思想の自由化も行われました。

 

ちなみにこの時、アメリカは日本の公用語である日本語をローマ字で表すという計画が立てられましたが、日本の識字率があまりにも高く、アメリカよりも上だったため、この計画は断念されることになりました。

 

転換する政策「逆コース」

(冷戦の始まり「核開発競争」 出典:Wikipedia)

 

 

こうして日本の民主化を推し進めていったGHQ。

 

しかし、冷戦が起き、日本での共産主義の広がりがあまりにも早いことを受けてGHQはアメリカのいいなりにするのではなく、アメリカの同盟国として共産主義に立ち向かう防波堤にする方針にどんどん変わっていきます。

 

この考えによってGHQは公職追放をした人たちをどんどん復帰させ、共産主義者を抑え込むという『逆コース』を突っ走っていくことになっていきました。

 

さらに1950年に日本に近い朝鮮半島で朝鮮戦争が起こると日本の工業と産業をなるべく早く復活させ、日本は朝鮮戦争の物資を送る役割を果たし朝鮮特需という一大好景気が起き、日本は戦後の不景気から抜け出し経済大国への一歩を踏み出しました。

 

また、GHQの最大の目的であった非軍事化もなかったことにされ、警察予備隊(のちの自衛隊)海上保安庁を設立し、日本は再び軍を持つようになりました。

 

GHQによる占領の終了

Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg

(サンフランシスコ条約著名の様子 出典:Wikipedia)

 

 

1952年、アメリカの日本をさっさと独立させて西側諸国の立派な一員にさせるという思惑を利用して当時の首相であった吉田茂は、アメリカに講和7原則を持ち出したことによってサンフランシスコで講和条約が結ばれることになりました。

 

日本は朝鮮半島と台湾の放棄やアメリカの沖縄、小笠原諸島支配を認めた上でサンフランシスコ講和条約が締結。日本はついに主権を回復し、立派な西側諸国の一員になりました。

 

これと同時にGHQは廃止。7年にわたる支配が終わりを迎えたのです。

 

これ以降日本では日米安全保障条約にのっとって在日米軍が日本にとどまることになります。

 

まとめ

✔ GHQはポツダム宣言の内容を実行するためにアメリカ中心で日本を統治した組織のこと。

✔ GHQは戦争犯罪人の処罰や、教育改革、経済改革、そして日本国憲法の制定に関わり日本の今後を左右する政策を行った。

✔ 朝鮮戦争以降GHQは公職追放を解除したり、再軍備を推し進める逆コースを行なって日本をアメリカの同盟国に仕立て上げた。

✔ 1952年にサンフランシスコ講和条約が締結されるとGHQは廃止となった。