鎌倉時代中期から後期にかけて登場した『異国警固番役(いこくけいごばんやく)』と『鎮西探題(ちんぜいたんだい)』。
今回はそれぞれの意味や違いを、詳しく解説していきます。
目次
異国警固番役と鎮西探題の違い
異国警固番役と鎮西探題。同時期に登場したので分かりづらいですが、その違いをしっかり理解しておきましょう。
①役割
✔ 異国警固番役……他国(元軍)からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備する。
✔ 鎮西探題……九州の御家人に向けて、行政・軍事・裁判を仕切る。
②創設された時期
✔ 異国警固番役……1271年(文永8)。ただし、元寇・文永の役後に強化された。
✔ 鎮西探題……1296年(永仁4)。元寇・弘安の役の後。
③担当する人
✔ 異国警固番役……九州の御家人。(非御家人も課せられていた時期があった)
✔ 鎮西探題……幕府から派遣された北条氏の一族。
ここからは異国警固番役と鎮西探題。それぞれについて詳しく解説していきます。
異国警固番役について詳しく
鎌倉幕府が他国からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備させた軍役のことを「異国警固番役」といいます。
この警備に当たったのは九州の御家人です。鎌倉幕府は九州の御家人に対して、異国警固番役を課す代わりに、御家人が務めていた鎌倉大番役(幕府の警備をする仕事)や京都大番役(朝廷の警備をする仕事)を免除しました。
異国警固番役の指揮をとったのは九州の御家人、少弐氏や大友氏でした。幕府は文永の役が起きる3年前の1271年(文永8)にはすでに九州の御家人に異国警固番役を命じていました。
元寇・文永の役が起きてから創設されたのではないので、注意しましょう。
異国警固番役ができた流れ
(元寇 出典:Wikipedia)
九州の御家人に課せられていた異国警固番役ですが、元寇がきっかけでより強化されることになりました。その詳しい流れを見ていきましょう。
①元寇・文永の役
当時、中国からヨーロッパまでを支配していたモンゴル帝国が2度にわたって日本に攻めてきた戦いを「元寇」もしくは「蒙古襲来」といいます。
1度目の侵攻は1274年(文永11)11月11日から26日にかけてで、これを「文永の役」といいます。
文永の役では、元軍とモンゴル帝国の支配下にあった高麗(朝鮮)軍は、北九州の博多湾から日本に上陸しました。
その後、九州の御家人が中心となった日本軍と交戦。日本軍の働きにより、元軍・高麗軍は予想以上に苦戦し、撤退していきました。
②文永の役の後
元軍が去ったあと、鎌倉幕府は「元軍はまた日本を襲ってくるだろう」と考え、対策を考えます。
そこで鎌倉幕府は、元軍が上陸してきた博多湾に石を積み立てて大きな防塁を作ることを決めました。こうして博多湾の沿岸に作られたのが「元寇防塁(石築地)」です。この元寇防塁は、現在も博多湾沿岸の地域に残されています。
(福岡市にある元寇防塁 出典:Wikipedia)
幕府は、異国警固番役についても強化させました。文永の役が起こる前までは、異国警固番役は1ヶ月の交代制でしたが、文永の役が起きたあとは、3ヶ月の交代制に変わりました。
また、元寇防塁が築かれると、警備する場所の担当を国ごとに分けて、1年ごとに交代して沿岸を警備しました。
③弘安の役の後
1281年(弘安4年)6月から8月にかけて、2度目の元寇にあたる「弘安の役」が起きます。
元軍・高麗軍・旧南宋(中国の南側にあった王朝)軍が日本に攻めてきましたが、文永の役の後に築いた元寇防塁や戦いに参加した御家人の活躍によって、日本は勝利します。
弘安の役の後も、異国警固番役は引き続き御家人たちに課せられていました。しかし、弘安の役の後は警備の仕事に就くのを九州の御家人だけに限らず、各地から武士が集められ、その中には鎌倉幕府と主従関係にない非御家人も含まれていました。
1333年(元弘3)に鎌倉幕府が滅亡するとともに、異国警固番役自体も滅亡しました。
異国警固番役の問題点
元軍や他国の軍から日本を守るために警備に務めていた異国警固番役ですが、御家人にとっては重い負担でした。警備にあたる費用を、自分たちで賄わなくてはいけないからです。
また、文永の役・弘安の役の後では、幕府から十分な恩賞をもらうことができず、御家人はさらに生活に困ってしまいます。
しかし、異国警固番役の任務は続けなくてはいけないので、御家人の負担はさらに増え、同時に鎌倉幕府への不満も高まっていきました。
鎮西探題について詳しく
鎌倉幕府が九州に設置した行政・軍事・裁判を仕切る機関を「鎮西探題」といいます。
鎮西探題自体は北条氏の一族が1名任命され、その部下に九州の有力御家人がいました。いわば、鎌倉幕府の九州出張所であり、そのトップにいた北条氏は九州長官のようなものです。
設置された時期は、北条兼時・北条時家が九州へ向かった1293年(永仁1)3月とする説と、北条実政が九州へ向かった1296年(永仁4)9月とする説に分かれていますが、1296年説の方が有力視されています。
また、鎮西探題が1人体制になったのは、北条実政の代からでした。
鎮西探題ができた流れ
(元寇 出典:Wikipedia)
鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏が、九州まで力を及ぼしたことがわかる鎮西探題ですが、創設されたきっかけは、やはり元寇でした。
①きっかけは元寇
2度にわたってモンゴル帝国の元軍が日本に攻め込んできた「元寇」の影響はやはり大きく、鎮西探題が創られることになったきっかけも、元寇でした。
再び元軍が襲ってこないか警戒するために、鎌倉幕府は北九州沿岸に異国警固番役を置きます。その役目は九州の御家人が中心ですが、この頃、九州の御家人たちは裁判をするときは、幕府のある鎌倉か、六波羅探題のある京都にまでわざわざ足を運んでいたのです。
しかし、異国警固番役を務めている御家人が、裁判を行うために京都や鎌倉へ行かなくてはいけなくなると、警備の方は手薄になってしまいます。
そこで、政府は九州の御家人たちのために、わざわざ鎌倉や京都へ行かなくてもいいように九州にも裁判ができる機関を設けました。それが「鎮西探題」です。
②北条氏の支配
(北条氏の家紋 出典:Wikipedia)
北条実政から北条氏一族の1人がトップにたって鎮西探題に就任して以来、その後も北条政顕、北条随時、北条英時が鎮西探題に就任し、九州の御家人をまとめていました。
しかし、九州の御家人はこの「北条氏による支配体制」を良く思っていませんでした。もともと、鎌倉幕府は朝廷のある京都に六波羅探題を置いたものの、九州への影響力はあまりありませんでした。元寇がきっかけで幕府の機関である鎮西探題が置かれるようになって、九州の御家人たちは不満を高まらせていました。
そして、1333年(元弘3)、九州の有力御家人である少弐氏・大友氏・島津氏らによってこの時の鎮西探題である北条英時は襲撃を受け、追い詰められた末に自害しました。こうして、鎌倉幕府の滅亡とともに、鎮西探題も滅亡したのです。
まとめ
・鎌倉幕府が他国からの攻撃に備えるため、北九州沿岸を警備させた軍役のことを「異国警固番役」という。
・異国警固番役は1度目の元寇・文永の役のあとに強化された。
・異国警固番役は、御家人の重い負担になり、鎌倉幕府と一緒に滅亡した。
・鎌倉幕府が九州に設置した行政・軍事・裁判を仕切る機関を「鎮西探題」という。
・九州の御家人が警備に専念できるように鎮西探題を置いた。
・鎮西探題は歴代北条氏が務めていたが、鎌倉幕府滅亡と共に九州の御家人によって滅亡に追い込まれた。