『荘園』は日本史の教科書に頻繁に出てくる用語ですが、「聞いたことあるし、何となくわかるけど…」という微妙な用語の筆頭ではないでしょうか。
そこで今回は土地制度の一つとしても大きい「荘園制度」についてわかりやすく解説していきます。
目次
荘園とは
荘園とは、一言でいうと貴族や寺院の私有地のことを指します。
この私有地管理のための事務所や倉庫を「荘」と呼んでいたことから、私有地を「荘」のある園として「荘園」と呼ぶようになったのです。
ここからは荘園のはじまりから崩壊までの歴史など詳しく解説していきます。
荘園の起源
①古代日本の土地所有
大和政権は天皇を中心とした国家ではありましたが、当時はまだ豪族の力が強く、天皇家や豪族たちはそれぞれ『屯倉(みやけ)』『田荘(たどころ)』と呼ばれる独自の所有地を持って支配していたようです。
②律令国家の形成
645年大化の改新をきっかけにし、豪族の力を抑え権力を集中させた国家の形成が進められていきます。
土地・人は公地公民として国家が直接支配するものとし、各地には「国」を置き、都から国司が派遣され、地方の豪族を郡司として指揮し、地方政治を行います。
701年大宝律令の制定で律令体制が完成され、その決まりに基づき戸籍が作成されました。
そして登録された6歳以上の人々に身分に応じた土地(口分田)が支給され、死後は返却することになります。これが班田収授法ですが、人々には口分田の面積に応じた租税他、様々な税(庸調など)が課せられたのです。
③税収の確保
その後、人口の増加や重い税負担による農民の逃亡で、口分田が不足し、税収も減少してしまいます。多くの農民が、口分田を所持してなければ課税もないということで、土地を捨てていたわけですね。
政府は税収増加を図るべく、723年三世一身法を制定し、新規開墾を行った人、その子と孫の代までの耕地の所有を認めます。
さらに743年墾田永年私財法によって新規開墾地の永久私有まで法律で認めてしまうのです。
④私有地の拡大
この法律を利用したのが、貴族や寺院でした。
公地公民の下、最初から彼らに対しては、元々の私有地の所有を認め、税免除もあり、さらに高い給料や多くの土地も与えておりました。まさに特権階級で余裕も十分にあったのです。
そこで、周りの農民や逃亡した農民などを使い大規模な土地開墾を推し進め、私有地を広げていったのです。これが、「荘園」の始まりで、このころの荘園を初期荘園(墾田地系荘園)といいます。
初期荘園は、「自墾地系荘園」と「既墾地系荘園」に分類されます。
「自墾地系荘園」は貴族たちが自らの労働力を使って拓いた荘園、「既墾地系荘園」は他人が拓いた土地を買収して自らの荘園としたものです。
荘園の発達
①寄進地系荘園
初期荘園は私有地でしたが、租税は課せられていました。
その為、摂関家など有力な公家の中には『ここは別荘の庭園であり、田畑では無い。だから税金を納めなくても良い!』といった強引な脱税手段をとる者が出てきました。
役人の任命権も有力公家にありましたので、こんな強引な手も何故か通用したようです。残念ながら、一般人には無理でした。実際には田畑ですから、国司等が来たら徴税されてしまいます。
そこで、自分の荘園を有力な公家や寺院に寄進して、名義を変更することで租(税)を逃れ、それより低い割合で名義料を払うことにするようにしました。これが寄進地系荘園です。
②特別な権利
寄進した荘園は租税を払わなくてよい不輸の権を得ることができました。
また、国司の立ち入りさえも禁止する不入の権も獲得していったのです。
ちなみに国司から不輸を認められた荘園を「国免荘(こくめんしょう)」朝廷から不輸を認められた荘園を「官省符荘(かんしょうふしょう)」と呼んでいたそうです。
荘園と公領
①政治の乱れと荘園の集中
10世紀になると、地方の政治はほとんど国司に任されるようになりました。
そのため、任命された地には代理を行かせて収入だけ得る国司や、私腹を肥やし横暴なふるまいをするものも出てくるようになり、地方の政治は乱れます。
そして中央政府に対してもこの乱れは波及し、貴族に対する賄賂などが横行、その一端として荘園の寄進も進み、中央の有力者は広大な荘園を持つようになっていきます。
②荘園公領制
このような国司が、直接支配する土地は国衙領(こくがりょう)または公領と呼ばれ、荘園とは区別されていました。
この荘園と公領が重なり合った土地の支配制度を「荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)」と呼びます。この支配は鎌倉時代まで続いていくのです。
荘園管理
①課税の変化
この頃から、土地単位の課税が行われるようになりましたが、田地は「名田(みょうでん)」または「名(みょう)」と呼ばれる徴税単位に編成され、その地域の有力農民が名田の耕作を請け負うようになります。
彼ら農業経営の専門家は「田堵(たと)」と呼ばれました。
この請負の仕組みを負名体制(ふみょうたいせい)といい、うまく仕事をやればやるほど自分のものになる米が増えるので、耕作者のやる気は促進されていきました。
②管理者の名称
国司の命で田地の経営・開発を行っていた田堵の中でも「大名田堵(だいみょうたと)」と呼ばれる大規模な経営を行う者が出てくるようになりました。
ところが、国司の横暴さには敵わないので、大名田堵は荘園を寄進し、土地を管理していくようになります。
ここで寄進を受けた公家や寺院は「領家(りょうけ)」と呼ばれ、万が一国司の方が上の時は、さらに上級へ寄進し、それを「本家(ほんけ)」と呼びました。
また荘園を直接支配する領主を「荘園領主」、領家と本家のうち、実質的な支配者を「本所(ほんじょ)」と呼びます。
大名田堵はどんどん開発を進め荘園の「開発領主」となり、やがて荘園領主から土地の管理を任され、「荘官(しょうかん)」となります。
ここら辺は用語が非常にややこしいですので、頑張って覚えてくださいね。
鎌倉期の荘園
①武士の台頭
平安末期になると治安の悪化などから、土地を守るために地方の豪族や有力農民は武装していきます。いわゆる「武士」の登場です。
彼らは地位や武力を利用して土地の開発をし荘園の寄進を進め、また公領においても犯罪の取り締まりや年貢の取り立てを任されるようになっていきました。
11世紀の後半には武士は荘園や公領に館を築いて、地方の社会の中心になっていくのです。
②鎌倉幕府と荘園
平氏滅亡後、源頼朝は対立した弟義経を捕える目的で国ごとに守護、荘園や公領ごとに地頭を設置することを朝廷側に認めさせました。
そして鎌倉幕府の成立により、武士達は鎌倉幕府に奉公する、御家人となりました。彼らは御恩として、地頭に任命され、所有していた領地の支配権は幕府が保証してもらいました。
そして幕府側の地頭と朝廷側の荘園領主や国司との間で二重支配のようになった土地では様々な紛争が生じるようになります。
これらの争いは幕府によって裁かれましたが、その策として、「地頭が一定の額の年貢を請け負って領主に納めた地頭請」や「土地の半分を地頭が支配する下地中分(したじちゅうぶん)」がありました。
このような策を通し、地頭の権利は次第に領主と同じようになっていったのです。
室町期の荘園
①悪党と守護大名
鎌倉末期から近畿地方を中心に荘園領主などに逆らい年貢を奪う「悪党」と呼ばれる武士が出てきました。
また、1333年鎌倉幕府が滅亡し、その後の室町幕府成立までの混乱の中で、地方では国司の権限を吸収し、独自の支配を始めた守護大名と呼ばれる守護も出てくるようになります。
②村の自治
一方、農村では有力な農民を中心に、村ごとにまとまり惣という自治組織を作るようになります。
団結を強めた農民たちは荘園領主や守護大名にも対抗するようになり、自立した村落(惣村)がまとまり年貢交渉までするようになっていくのです。
このような流れの中で「荘園」は次第に解体への道を進んでいきました。
荘園制の崩壊
その後、1467年応仁の乱により、室町幕府は有名無実となり、戦国期が到来すると荘園は武士に横領され、荘園制は事実上崩壊していきます。
①戦国時代の荘園
戦国時代の戦国大名は、守護大名以上に、地域支配を強めていきました。
戦国大名は武力で自らの支配地域を確立していきました。勿論、荘園の所有を巡る紛争なども武力で解決していきました。
そして土地の支配権が武士に移っていく中、経済基盤をなくした公家などが没落していきます。名目上自分の土地だったはずの荘園からの収入が力づくで奪われていったからです。
②太閤検地
豊臣秀吉が天下統一を果たし、土地制度の見直しである太閤検地を行いますが。
ここでは、1つの土地には直接の耕作者の権利しか認めませんでした。(一地一作人)
このことで、以前までの荘園と公領との土地支配制度は完全になくなり、「荘園制」は崩壊してしまったのです。
まとめ
・古代の土地はすべて国のものであり、賃料として税が課せられていた。
・税収増加を期待した新規開墾事業により、私有地が認められ、そこで発生したのが荘園。
・初期荘園の形態【墾田地系荘園】→有力貴族が自力で開墾または開墾地の買収。
・税負担の軽減目的【寄進地系荘園】→虎の威を借るキツネ作戦。
・寄進地系「荘園」が増加、公領との土地支配【荘園公領制】。
・幕府の成立から、巧妙な手段で土地支配が武士に成り代わり。
・戦国期にかけて武士の横領や農民の自立などから「荘園制」の崩壊が加速した。
・秀吉が土地所有権の見直し【太閤検地】を実施し、荘園制終了。