ロシアと中国の間で結ばれたイリ条約。
ロシアの中央アジア進出を学ぶ上で大切ですが、いくつかの事件も関わり少し覚えにくい条約になっています。
今回はそんな『イリ条約』について経過や内容などわかりやすく解説していきます。
目次
イリ条約とは
(条約締結場所のリヴァディア宮殿 出典:Wikipedia)
イリ条約とは、1881年にロシア帝国と中国(当時は清)の間で結ばれた条約のことです。
条約の締結場所は、ロシア帝国のリヴァディア宮殿。これによりロシアが中国にイリ地方を返還することを条件にイリ地方の一部と償金を手に入れたのです。
イリ条約の正式名称はサンクトペテルブルグ条約といいます。イリ条約という名前はその条約に関わったイリ地方からきています。
イリ条約締結までの流れ
(イリ・カザフ自治州を流れるイリ川 出典:Wikipedia)
①イリ地方とは
イリ地方は中央アジアにあり、現在中国の新疆ウィグル自治区のイリ・カザフ自治州の中にあります。
中国とカザフスタンの国境付近の町です。
この地域はもともとは東トルキスタンと呼ばれる地域でしたが、はるか昔から中国やモンゴル、ウィグル王国などいろいろな国に支配されており、1760年代ごろからは中国の支配下にありました。
②ヤクブ・ベクの乱
中国に支配されていたイリ地方でしたが、それに反対するイリ地方の人々は1820年ごろから各地でたびたび反乱を起こしていました。
1864年にはイスラム教徒を中心として回民蜂起と呼ばれる特に大きな反乱が起こり、一時的にイリ地方は中国の支配から離れることになります。
そんなときに現れたのがヤクブ・ベクです。1867年にヤクブ・ベクはイリ地方を統一し、中国の軍とも戦います。
(ヤクブ・ベク 出典:Wikipedia)
イギリスはヤクブ・ベクの支配を認め武器の供給を行い、ロシアもヤクブ・ベクと貿易を行いました。
イギリスやロシアとの交流で武器を整えたヤクブ・ベクは中国への攻撃を行い当時の中国の大臣である左宗棠(さそうとう)が率いる軍と戦いますが最終的に敗れてしまいます。
この一連の出来事をヤクブ・ベクの乱と呼びます。
③イリ事件
ヤクブ・ベクを中心としたイリ地方の反乱によって中国国内は混乱します。
この混乱の中、1871年にロシアがイリ地方の占拠に乗り出し、イリ地方の多くがロシアに支配されることになりました。
ロシアが進出した理由として、反乱がロシアにまで及ぶのを防ぐことを名目としていましたが、実際はロシアの領土拡大を狙ったものでした。
この時代、ロシアは中央アジアへ領土を広げることを目指していたため、この中国国内の混乱はロシアにとって大きなチャンスだったのです。
このロシアの進出をイリ事件と言い、これがきっかけとなって後にイリ条約が結ばれるのです。
中国は1878年には反乱を鎮圧し、再びイリ地方を制圧しました。そしてロシアに対してイリ地方からの撤退を要求しましたが、ロシアはこれを拒否し、紛争がたびたび起こっていました。
④リヴァディア条約の締結
1879年、ロシアと交渉を続けていた中国は崇厚(すうこう)という人物を派遣します。
(崇厚 出典:Wikipedia)
しかしこの人物は「○○日までに帰国しないと死ぬ」という占いを信じて早く帰るために、なんとロシアの言い分をすべて聞いた不平等な条約を結んでしまい、これにはロシア側も驚いたと言われています。
この条約の締結場所はロシアのリヴァディア宮殿で結ばれたためリヴァディア条約と言いますが、別名、第一次イリ条約とも言われています。
条約の内容はイリ地方のほとんどの範囲をロシアに譲り、中国のあちこちにロシア領事館を設置、ロシア軍に大金を支払うというとんでもないものでした。
⑤イリ条約の締結
リヴァディア条約の内容を知った中国政府は当然これを拒否し、崇厚をクビにします。崇厚は死刑を宣告されますが、イギリスの提案によって死刑は免れています。
さらにヤクブ・ベクの乱でも登場した左宗棠は武力でロシアと戦おうと考え、ロシア側も中国と戦う準備を開始し、中国とロシアは一触即発の事態となりました。
焦った中国政府は左宗棠を呼び戻し、戦争を回避するために曽紀沢(そうきたく)を派遣します。
(曽紀沢 出典:Wikipedia)
そして1881年2月にロシアのサンクトペテルブルクでイリ条約が結ばれました。
イリ条約の内容
①イリ地方の返還
イリ条約によってイリ地方の多くの地域は中国に返還されました。
しかし、ホルゴス河より西側とザイサン湖周辺地域はロシアに譲渡することになりました。
それまで中央アジア付近の国境は曖昧なものでしたが、この条約の締結により中国の西北側の国境が確定し、国境の標識も設置されました。
現在の中国とカザフスタンあたりの国境もこの条約に基づいて決まっています。
②償金の支払い
償金とは損害賠償金のことです。
イリ条約により中国はロシアに損害賠償金として900万ルーブルを支払うことになりました。
この当時の1ルーブルがどの程度か正確には分かりませんがおそらく2200~2700円くらいになり、900万ルーブルは計算すると243億円にもなります。
他にもロシアと中国が貿易する際には税金がかからないというロシア側の特権を認めたり、ロシア領事館の設置を決定するなど条約の内容はロシアに対して有利なものでした。
それでもイリ地方の多くは中国に返還されるということでイリ条約が締結されたのです。
イリ条約の影響
(赤部分:新疆省の位置 出典:Wikipedia)
イリ地方の返還後、中国はイリ地方の支配を強くするために新疆省(しんきょうしょう)を設置します。これは中国の歴史で初めてのことでした。
イリ地方にはウィグル人という民族が住んでおり、それまでイリ地方を治めていたのはそのウィグル人でした。
しかし、新疆省が設置されることで中国の民族が直接支配するようになり、イリ地方は完全に中国の植民地になりました。
これはヤクブ・ベクの乱のような反乱が再び起こることを防ぐこと、そして国境付近の地域であるためロシアの進攻を警戒することを目的として行われました。
また、アヘン戦争やイリ条約などでだんだんと中国の力は衰退していきます。
この後、このままではいけないと考えた中国の人たちが革命を起こしていくことになります。
イリ条約の語呂合わせ
イリ条約の年号は、
「ロシアは1881(嫌や、イ)リ条約」
「1881(一派はイ)リからやってきた」
と覚えておきましょう!
まとめ
・イリ条約は1881年にロシアと中国の間で結ばれた条約のこと。
・ヤクブ・ベクの乱やイリ事件の影響をきっかけにイリ地方を取り戻すことを目的に結ばれた。
・イリ条約はイリ地方の一部をロシアに渡し、中国がロシアに償金を渡すなどロシアに有利な内容だった。
・イリ条約により国境が確定し、中国は新疆省を設置した。