天下分け目の戦いとも言われている関ヶ原の戦い。
この戦は日本の歴史が大きく変わったと言ってもいいほどの影響を残しました。
今回はそんな日本を大きく動かすことになる『関ヶ原の戦い』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
関ヶ原の戦いとは
(関ヶ原の戦い 出典:Wikipedia)
関ヶ原の戦いとは、1600年に今の岐阜県で起こった徳川家康率いる東軍と毛利輝元・石田三成率いる西軍が戦った戦のことです。
この戦によって徳川家康の天下は決定的となり、徳川幕府を開く要因にもなりました。
関ヶ原の戦いがおこるまでの経緯
①秀吉の死と家康の台頭
1598年、天下人となった豊臣秀吉がこの世を去りました。
跡を継いだのはわずか6歳の豊臣秀頼。
さすがの豊臣家も6歳の人に政治をさせようとするのはちょっと無理があります。
そこで秀吉は秀頼を守るために五大老という制度を作りました。
この五大老は豊臣政権の中でも特に大物な大名であった徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景(小早川隆景の死後は上杉景勝)の五人が秀頼のサポートをするというものです。
そしてこの五大老の中でも255万石と日本トップの石高誇っていたのが徳川家康でした。
一方石田三成の石高は16万石と家康の十分の一以下でした。
②前田利家の死と三成と武断派の対立
(石田三成 出典:Wikipedia)
西軍の大将の一人である石田三成は五大老とは違い、豊臣政権下で事務的仕事をしている五奉行の一人でした。
しかし、この石田三成。とてもというほと諸大名と仲が悪い。
三成という人物は今でいうところの官僚みたいな人で大名などにいろいろ指示を出していました。
大名からすれば「三成は俺に偉そうに振舞っていてうざすぎる!」と思われても仕方ありません。
秀吉の死後家康は秀吉の遺言である『勝手に婚約を結ばない』という約束を破ります。
それに対して前田利家はこれに対して抗議し家康と対立しましたが、運の悪いことに前田利家は1599年に亡くなってしまいます。
家康と豊臣家のストッパーの役割を果たしていた前田利家が亡くなったことによって石田三成を襲撃しようという計画がどんどん立てられていきます。
そして遂に加藤清正、福島正則をはじめとした七人の武断派の大名が三成を襲撃。
ここは家康が三成の隠居を条件になんとか取り持ったため事はおまりましたが、日本はここからどんどんきな臭くなってきます。
③上杉征伐
三成が隠居したことをチャンスと見た家康はせっせと邪魔者を排除しにかかります。
最初のターゲットは前田家でした。
家康は前田家に豊臣家に対して謀反の疑いがあるといちゃもんをつけ始め、前田家を潰すという脅迫までし始めます。
しかし、前田利家の妻である「まつ」が家康の人質となってなんとか前田家はピンチを脱します。
家康はさらに五大老の一人であり、会津120万石の大名上杉家にも謀反の疑いがあるといちゃもんをつけ始めます。
しかし、上杉家はこのいちゃもんに真っ向から立ち向かいました。
上杉家には謙信公から引き継いだ義の心があるため野心丸出しの家康を許せなかったのでしょう。
上杉家は家臣の直江兼続が書いたとされる直江状という家康を批判している手紙を送りつけます。いわば宣戦布告です。
家康もこの手紙を読んで会津征伐を決意。諸大名を集めて会津へと出兵しました。
④小山評定と伏見城の戦い
家康が会津征伐を始めると大阪では家康を打倒する動きが出てきます。
それは家康も重々承知のことで、伏見城に家康の親友であり家臣である鳥居元忠を置いて三成の動きを監視します。
そして遂に三成は大坂で挙兵。
同じく挙兵した宇喜多秀家、小西行長などと共に家康が留守の間に近畿を制圧しようと伏見城を攻めます。
結局伏見城は落城し、鳥居元忠が討死しますが、その知らせを聞いた家康は小山(現栃木県)で緊急会議を開いて三成を討伐する決意を示しました。
関ヶ原の戦いのデータ
①参加武将や総兵力
さてここから関ヶ原の戦いの戦いに入っていきますが、ここで西軍と東軍の主力な大名を見てみましょう。
石田三成率いる西軍は毛利輝元始め、宇喜多秀家・小西行長・島津義弘・大谷吉継・小早川秀秋などの西日本中心の大名が集まっていました。
一方、徳川家康率いる東軍は家康の家臣を始め、黒田長政・福島正則・藤堂高虎などの主に三成を嫌っていた大名が集まっています。
兵力の方は西軍は総勢約8万、東軍は総勢約7万から9万のどちらも互角でした。
②軍の配置など
(関ヶ原周辺地図 出典:Wikipedia)
関ヶ原の戦いの軍の配置は圧倒的に西軍の方が有利でした。
布陣図を見てみると西軍は西側に一面に広がっており、さらに松尾山には小早川秀秋、南宮山には毛利や長宗我部などが構えているためもう少し頑張れば東軍を包囲できる状態です。
戦において包囲されたら負け確定ですので、この部分では西軍が勝っていたといってもいいでしょう。
それを表す証拠に明治時代にお雇い外国人としてドイツ人の軍人を呼び、この布陣図を見せてどっちが勝ったか予想させると『こんなの西軍の勝ちで終わったはずだ』と言ったそうです。
しかし、布陣図だけではわからない西軍の弱点があったのです...
関ヶ原の戦いの顛末
(関ヶ原の戦いの屏風絵 出典:Wikipedia)
①全く動かない毛利軍
関ヶ原の戦いの戦いは午前8時に始まりました。
一斉に宇喜多秀家を攻める東軍。
しかし、西軍は必死に東軍の攻撃に耐えてなんとか反撃しようとします。
なぜなら三成は「毛利や小早川が一斉に動けば絶対に勝てる!」と確信していたからです。
しかし全くもって小早川と毛利は動きません。
それもそのはず、その頃毛利軍は弁当を食っていたのです。
まぁ、本当に弁当を食べていたのかは微妙なところですが・・・
実は早く出撃したい長宗我部にいろいろめんどくさがっており、さらに東軍が勝った時の保険として毛利軍は取りあえず延ばし延ばしにするため「今兵士達は弁当を食べているから少し待って!」と苦し紛れに答えて動くことはありませんでした。
②小早川秀秋の裏切りと西軍の敗北
(小早川 秀秋 出典:Wikipedia)
まず毛利軍が動かない時点で西軍が勝てる望みがある包囲はもう無理。
さらにとんでもない事態が西軍を襲います。なんとここで小早川秀秋が裏切ったのです。
小早川秀秋が裏切ったことによって西軍は逆に包囲をされる側になってしまいます。
上にも書いた通り包囲された瞬間に負けは確定。
西軍はその通り大谷吉継が討死するなど壊滅的な被害を受けて崩壊しました。
なんで小早川秀秋が裏切ったというと、実は秀秋は朝鮮出兵の時にヘマをしたとして三成によって領地を失ってしまいます。
しかし、これを家康がなんとかしてくれて秀秋は領地を取り戻すことができました。
そのため秀秋は三成のことを恨んで、逆に家康のことを恩人と感じていたのです。
三成のこの対応が人生の大一番でツケとして現れたのです。
結局これが原因となり、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わりました。
関ヶ原の戦いの戦後と影響
(徳川家康 出典:Wikipedia)
①西軍の武将のその後
関ヶ原の戦いで西軍が負け、三成ら西軍の武将は各地に逃走を開始しました。
西軍についた島津義弘は東軍の陣に突っ込んでなんとか逃げ帰った程の過酷なものだったそうです。
しかし、結局三成は捕まり三条河原というところで小西行長・安国寺恵瓊などと共に打ち首となりました。
②関ヶ原の戦いの論功行賞
一方で、関ヶ原の戦いの論功行賞(褒美を与えること)を開始しました。
家康は東軍についた武将たちに領地を与え、家康自身の領地も255万石から400万石までに増やしました。
その一方で西軍についた武将は改易や減封という処罰が待っていました。
直江状を送り家康に対立した上杉家は会津120万石から米沢30万石に、西軍の実質的な総大将であった毛利家は広島112万石から萩36万石など3分の2の大幅な領地を失いました。
宇喜多秀家は岡山52万石が没収された上で八丈島に流され、長宗我部盛親は土佐を失ってしまい京都で寺子屋をやるようまでに落ちぶれてしまいます。
豊臣家も関ヶ原の戦いの戦いには参加していないものの、三成を討伐した大名たちに領地をあげるという名目のもとで220万石から65万石まで減らされます。
これによって徳川家と豊臣家の勢力が逆転しました。
しかし、毛利家は関ヶ原の戦いから266年後には徳川家に勝利するのですから歴史というのは面白いものです。
③徳川幕府の始まり
家康は関ヶ原の戦いの3年後遂に朝廷から征夷大将軍に任命され本拠地の江戸に幕府を開きました。
これを江戸幕府や徳川幕府と言います。
そして日本は約265年間徳川家の元で平和な時代が訪れることとなるのです。
まとめ
・関ヶ原の戦いは1600年に起きた家康率いる東軍と三成率いる西軍の戦いのこと。
・関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わって家康は1603年に江戸に幕府を開いた。
・この戦によって豊臣家は没落した。