皆さん動物は好きですか?
江戸時代では動物というのはいまと同じく身近な存在でしたが、ある時は人間よりも犬の方が偉かった時代もあったのです。
今回は、そんなち少しおかしな法令『生類憐れみの令』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
生類憐れみの令とは?
生類憐れみの令とは、江戸時代前期に第5代将軍 徳川綱吉が出した動物愛護に関する法令のことです。
この令によって今の中野区全体には御囲という犬専用のスペースができるなど、一時期は人より犬の方が偉くなってしまいました。
しかし、この法令は綱吉が死去し、次の将軍徳川家宜になるとわずか7日で廃止されました。
ここからはこの生類憐みの令が出された理由や法令の内容・影響などについて詳しく解説していきます。
生類憐れみの令を行なった理由(目的)
(徳川綱吉 出典:Wikipedia)
生類憐れみの令を出す徳川綱吉は学問が超好きな将軍で儒学の学校を建てたり、自分で儒学に関する授業を行ったりするほどでした。
さらに徳川綱吉が将軍にいた頃になると戦国時代を体験した人はほとんどいなくなり、人々の生活は安定して大阪中心に元禄文化という新しい文化が生まれるほどにまでになっていました。
しかし、徳川綱吉にはある悩みがありました。
それは捨て子や捨て犬の多さ。
やはり戦国時代が終わっても人々には口減らしという人を捨てようが構わない精神がまだ残っていました。
(※口減らし:経済上の理由から養う人数を減らすこと)
生類憐れみの令が生まれたのにはいろんな説があって、一つが綱吉の母桂昌院が僧侶に『綱吉に子供ができないのは前世に殺生をしまくったからだ!だから生き物を大切にしなさい!』
と言われたからという説がありますが、実際には綱吉は儒学を学んでいくうちに人々の戦国時代の考えをガラッと変えたかったという説が有力になっています。
(桂昌院 出典:Wikipedia)
生類憐れみの令の内容
①犬の保護政策
生類憐れみの令を語るうえでは犬関連は絶対に避けては通れません。
綱吉は犬公方という異名があり、犬に関する法令を数多く出しました。
その理由はとんでもなく単純で綱吉が戌年生まれということと、江戸時代には犬という生き物は人々にとって一番身近だったからです。
たとえば、江戸の町には捨て犬や野良犬がごろごろいてさらに武士たちは鷹狩りに犬の肉を使用したり、犬追物という犬を追っかける訓練などをしていました。
しかしこれでは犬がいたずらに殺されたり、人と犬の間にトラブルが起こるかもしれない。
そこで綱吉は犬を傷つけた人を死罪にする一方、犬を保護するため犬のためだけの戸籍のようなものを作ることを命じました。
また中野に『御囲』という犬の保護施設もつくりました。
この御囲。中野区がすっぽりはいるほどの巨大な犬小屋で、そこに8万匹とも10万匹ともいわれる犬が収容されたそうです。
しかもこの御囲のお風呂は全て当時の高級木材であったヒノキをふんだんに使用して、さらに犬用の食事も当時の一般民衆は到底食えない食材をたくさん使用していました。
そのため、総工事費は総額20万両(120億円)となっています。
これだけでも人間は犬以下なのか?と思いますけど、さらにその御囲の費用は現在の中野区に住んでいた人たちからの税金で賄われていたということですのでビックリです。
②犬以外の動物対策
もちろん生類と書いていますから保護対象は犬だけではありません。
例えば生類憐れみの令によって肉や魚は食べられなくなります。つまり江戸町民みんなベジタリアンとなってしまいます。
さらに・・・
- 金魚を飼うときは幕府に届け出を出すこと
- 農作物を荒らす害鳥は離島に運んでから離すこと
- 動物の売買の禁止
- 蚊が止まったらうちわで扇いで蚊を飛ばすか我慢すること
などの厳しい制限がかかってしまいました。
しかもそれを破ったものは磔(はりつけ)、打ち首、さらには蚊を殺しただけで島流しなどやりすぎな処罰が待ち受けていました。
③捨て子対策や福祉対策
(江戸の捨て子 引用元)
上にも書いた通り江戸時代の初期は口減らしなどによって捨て子がたくさんいました。
綱吉はそんな状況をなんとかしようとして捨て子に対する考え方を改めさせようと捨て子禁止令を発令して、さらに捨て子用の戸籍なんかも作ったりしました。これによって捨て子が少しは減ります。
さらに社会的に弱い立場にあった病人には特別に無許可で駕籠に乗っても良いという特例も出し、さらに牢屋などの環境を改善したりするなど福祉の方も整えていきました。
④地方での生類憐れみの令
地方では一応生類憐れみの令が出されていましたが、地方では普通に肉や魚を食べており本当に守っている藩はごくわずかでした。
例えば、水戸黄門で有名な水戸光圀は綱吉の嫌味として毛皮を送ったりしたそうだというのですから別にそんなに地方は厳しくはなかったようです。
生類憐れみの令の廃止
(徳川家宣 出典:Wikipedia)
生類憐れみの令は綱吉が死ぬまで続けられていました。
しかし、綱吉の次の将軍徳川家宜になるとわずか7日で生類憐れみの令は廃止となってしまいます。
生類憐れみの令が出された期間は22年。
生類憐れみの令違反で処罰を受けたのは全員合わせると67名でした。
生類憐れみの令の影響
①幕府財政の悪化
犬の保護のために作った御囲の費用や犬のための食費、生活費によって最初の頃にはたくさんあった幕府の貯蓄もほとんど使い果たしてしまいました。
そこでなんとかするために綱吉は新たに元禄小判という小判の金の量を減らして小判の量を増やすアイデアを生み出しました。
しかし、この元禄小判によって小判の信用度や価値がだだ下がりとなってしまい、江戸の町は極度のインフレ状態になってしまいます。
結局、正徳の治の時に新井白石が金の量を元どおりにしますが、幕府の財政を立て直すことはできませんでした。
②生き物に対する意識の変化
生類憐れみの令によって民衆たちの生き物に対する意識は、戦国時代みたいに使えなくなったらすぐに殺すみたいな血なまぐさい考え方からガラッと変わりました。
これに関して言えば綱吉が目指していた儒学の精神が行き渡ったといえます。
綱吉はこの生類憐れみの令を『死んでからも100年以上続けてくれ』と言ってなくなりました。
しかし、次に将軍となった家宜は生類憐みの令自体は廃止したものの、捨て子対策や動物保護に関しては引き続き行われたそうだったので、一応綱吉の遺言は守ってもらえたと言ってもいいかもしれません。
まとめ
✔ 生類憐れみの令とは徳川綱吉の時に出された動物愛護政策。
✔ 生類憐みの令によって今の中野区全体には御囲という犬専用のスペースが出来た。
✔ 生類憐れみの令は綱吉の死後7日で廃止された。