【執権政治と得宗専制政治の違い】簡単にわかりやすく解説!

 

鎌倉幕府の歴史を三つに時期区分した時、最初が将軍の独裁政治、次が執権政治、第3の段階を得宗専制政治といいます。

 

今回はその中でも『執権政治と得宗専制政治の違い』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

執権政治と得宗専制政治の違い

 

(北条氏の家紋『三つ鱗』 出典:Wikipedia

 

 

執権政治と得宗専制政治はどちらも北条氏が主導していて、さらにこの2つの政治の境目というのは専門家の間でも意見が分かれている問題です。

 

そのため、違いを説明するのも一苦労なのですが、まずはこの「執権」と「得宗」の違いを見ていきましょう。

「執権」と「得宗」の違い

執権・・・鎌倉幕府で将軍を補佐して政治を統括する職。

政所別当を執権と称したのが始まりで、1203年北条時政が大江広元とともに別当となった。

得宗・・・北条氏の家督を継いだ嫡流。

時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代をいう。北条義時の法名徳宗に由来するといわれている。

 

ここで覚えておきたいのが、執権はあくまで役職の名前を指すということです。つまり、北条氏とは限らないわけです。対して得宗は北条氏の嫡流という意味なので、北条氏だけです。

 

以上を踏まえ、2つの政治『執権政治と得宗専制政治』の違いを見てみましょう。

それぞれの違い

執権政治・・・鎌倉時代、北条氏が執権の地位によって、幕府の実権を掌握した政治体制。

1203年に時政が政所別当に就任した時に始まり、義時が1213年に侍所別当をも兼ね、執権として幕府内の実権を掌握してから本格的になる。義時の子泰時の時代になってから、評定衆と連署が設置されたことで執権政治が完成したとされる。

得宗専制政治・・・執権北条氏の家督を継ぐ得宗家による専制政治。

北条氏の執権政治を前提として、権力が得宗家に集中した結果、得宗を中心に政治が運営されるようになった段階の政治形態。得宗家の家人である御内人の勢力が強まり、御家人の要求は見捨てられがちになる。有力な御家人であった安達泰盛が御内人の代表である内管領に滅ぼされると、得宗専制政治は頂点を迎える。

 

ものすご~くざっくり言ってしまうと、執権政治は執権の北条氏を中心としながらも、御家人とみんなで物事を決めましょう!という気持ちがあったのに、得宗専制政治になると、御家人はもはや蚊帳の外で、北条氏周辺の人たちだけで権力を独占しよう!という感じになってしまいました。ここが分かりやすく違うところかなと思います。

 

あとは時期の違いで区別するのが大きいです。

 

最初に解説した通り、鎌倉幕府の第二段階が執権政治、第三段階が得宗専制政治です。

 

細かい境目は後に説明しますが、最盛期は、執権政治は評定衆と連署が設置された1225年頃得宗専制政治は蒙古襲来後、もっというと霜月騒動後の1285年頃と言えるかと思います。

 

執権政治について詳しく

(初期執権の北条時政 出典:Wikipedia

①初期執権政治

源頼朝が亡くなると、有力御家人は将軍のもっていた多くの権限を制限し、さらに有力御家人による合議によって、政治や裁判を行おうとするようになりました。

 

1203(建仁3)年、北条時政は源頼家を廃して実朝を将軍にたてた際、政所別当(執権)に就任し、政権を握りました。

 

以後、北条氏が代々この職を独占します。義時が執権となってのちは、政子・義時が政権を握るようになります。

 

1213(建保元)年、義時は侍所別当の和田義盛を滅ぼし(=和田合戦)、政所・侍所別当を兼ね、その後、北条氏は両職を世襲します。

 

1219(承久元)年に実朝が殺されると、幕府は摂関家から九条頼経を迎えたが、政子が実質的な将軍となり、執権義時がこれを助け、1221年の承久の乱でも勝利を収めました。

 

執権政治の完成

1224年、執権北条義時が亡くなると、京都で六波羅探題をつとめていた子の泰時が鎌倉へ呼び戻され、執権になりました。

 

(北条泰時 出典:Wikipedia

 

 

翌年には政子も亡くなります。執権泰時は、自分ひとりでは協力に政治を行うことは無理だと考え、有力御家人が合議する新しい政治のしくみを整えました。

 

まず、連署という執権を補佐する役職をおき、六波羅探題をつとめていた叔父の時房を鎌倉へ呼び戻してこの役につけます。

 

また、執権・連署と評定衆とが合議して政策を決定する評定会議の制度をつくりました。

 

評定衆は、十数名の有力御家人と法律や事務に詳しい官僚で構成され、評定会議は執権が開く会議で、将軍は出席せず、あとで会議の結果を承認するだけでした。

 

評定会議の開始によって、執権は将軍の補佐から、政策を決定する幕府の中心へと変わったのです。ここを執権政治の完成と見ます。

 

つづいて泰時は1232(貞永元)年に評定会議での判断基準になる御成敗式目という法律衆を定めます。

 

御成敗式目は御家人が関係する事件にだけもちいられる法律で、裁判を公平なものにするため、武士の間でのならわしに基づいて定められました。

 

泰時の時代は、北条氏が独裁的な政治を行うようになる前の、わずかな合議制の時代だったといえます。

 

 

得宗専制政治について詳しく

(北条時頼 出典:Wikipedia)

得宗への権力集中

13世紀半ば、執権が北条時頼になったころから、幕府内では得宗と呼ばれる北条氏惣領の勢力が強まり、幕府の実権を握るようになりました。

 

惣領とは、一族をまとめる中心人物です。

 

1246年に、時頼と対立した前将軍九条頼経が京都に追放されますが、それ以来、将軍は力をもたない名前だけの存在になってしまいます。

 

幕府政治の中心だった評定会議も名ばかりのものになり、重要な政策は得宗の屋敷で、得宗とその周辺の人間だけによる寄合(よりあい)という秘密会議で決定されるようになりました。

 

さらに蒙古襲来は、得宗へと権力を集中させることになりました。

 

過去に例のない危機に対処するため、得宗を中心に幕府内の団結が強められた結果、北条氏一門でも得宗に歯向かうような動きを見せるものは処罰されてしまいました。

 

また、モンゴルの再襲来にそなえた警備の強化を理由に、守護が大量に交替させられ、多くの国々の守護に得宗とその周辺の北条氏一門が任命されました。

 

幕府に求められる役割が増大するのにしたがって、幕府内ではすべての権限が、得宗に集中するようになったのです。

 

霜月騒動

(北条貞時 出典:Wikipedia)

 

 

そうしたなか、1284年に得宗北条時宗が34歳で急死し、あとにはまだ14歳の新得宗北条貞時が残されました。

 

このとき、幕府では積極的な政治改革が試みられます。

 

時宗の妻の兄であり、貞時の伯父だった安達泰盛がその中心となり、九州の非御家人を御家人にして、寺社からの恩賞の要求にも応えるなど、蒙古襲来以後の幕府が抱えていた問題の解決に取り組もうとしました。

 

しかし、この安達泰盛の勢力を恐れた内管領の平頼綱をはじめとした御内人(得宗家の家臣)が泰盛一族を討伐し、二階堂氏・武藤氏などの御家人にも自害する者が多くありました。これを霜月騒動といいます。

 

これにより以後、内管領の権力が強まり、貞時時代に得宗専制支配が確立しました。

 

安達泰盛の政治改革には、得宗に権力が集中している幕府のありかたを、大きく作り替える可能性がありましたが、その機会は失われてしまいました。

 

政治改革がされずに進んだこの後の鎌倉幕府は、崩壊への道をたどることになります。

 

まとめ

・執権は鎌倉幕府で将軍を補佐して政治を統括する職のこと、得宗は北条氏の家督を継いだ嫡流のこと。意味はイコールではない。

・執権政治は御家人との合議制があったが、得宗専制政治はほぼ北条氏の独裁だったと言える。

・執権政治の最盛期は北条泰時の頃、得宗専制政治の最盛期は北条貞時の頃。