皆さんは紫色はお好きですか?
紫色という色はあんまり使う機会が少ない色ですが、実は日本にとって紫色という色は特別な色だったのです。
今回は、そんな紫色が関係している事件であり江戸幕府と朝廷の関係が逆転した事件である『紫衣事件(しえじけん)』についてわかりやすく解説していきます。
目次
紫衣事件とは
紫衣事件とは、1627年(寛永4年)に起こった大徳寺の僧たちに紫衣を与えた事によって幕府と朝廷が対立した事件のことです。
この事件によって江戸時代における幕府と天皇の立場が決まることになりました。
そもそも紫衣とは?
紫衣(しえ)とは名前の通り紫色の服のことです。
なんでこんな物が事件の名前になったのかというと日本にとって紫色というのはとても高級で偉い人しか身につけることが出来ない特別な色だったのです。
例えば、聖徳太子の冠位十二階は紫が一番上でしたし、さらに言えば権威のある僧は紫色の袈裟(けさ)をきていました。
今回はそんな袈裟に関する話をしていきます。
紫衣事件までの流れ
①禁中並公家諸法度の制定
1615年、豊臣家を滅ぼして徳川家の抵抗勢力がいなくなり遂に平和な時代が訪れようとしていました。
そこで幕府は朝廷に対するルールを決めて朝廷をコントロールしようと考え始めます。
そのルールこそが禁中並公家諸法度です。
禁中並公家諸法度には天皇は学問に打ち込むべしや、摂関家を簡単に摂政や関白にしてはいけないなどという条文が書かれていますが、今回注目する点は紫衣の着用を許可するときはなるべく権威のある住職に与えるべしという条文。
これは「もともと紫衣は偉い住職にしか与えられない希少なものだからもっと考えて紫衣を与えなさい!」という意味ですが、これが後に大問題を引き起こすのです。
②後水尾天皇と和子の結婚
ここで少しこの当時の朝廷の動きを見てみましょう。
1616年猪熊事件や禁中並公家諸法度などの制定などで朝廷に対して失望していた後陽成天皇が譲位を発表。
そして次の天皇に後水尾天皇が即位しました。
(後水尾天皇 出典:Wikipedia)
幕府は朝廷との結びつきを強くするために後水尾天皇と当時の将軍徳川秀忠の娘であった和子を結婚させます。
こうして朝廷と幕府の結びつきは強化され、より一層朝廷は幕府に対して文句を言えなくなってしまいました。
紫衣事件の概要
(沢庵和尚 画像引用元)
①幕府の紫衣に対する規制
1627年、後水尾天皇は大徳寺の僧であった沢庵和尚(あのたくあんの人)に紫衣を与えようとします。
しかし、幕府にとったら「禁中並公家諸法度に書いてあることを守っていないではないか!」とかんかんに怒ります。
幕府にとったらせっかく禁中並公家諸法度を制定して朝廷をコントロールするつもりだったのに天皇が勝手な行動をするとたまったもじゃなかったでしょう。
こうして幕府は大徳寺の僧などに与えられていた紫衣を取り上げ、大徳寺と天皇にに対して厳重な注意をします。
しかし、天皇にとっても元々天皇の部下であった征夷大将軍が天皇の行動を指図されることもたまったもんじゃありませんでした。
もちろん沢庵和尚始め大徳寺の僧だって「天皇が決めることを将軍がしゃしゃり出てくんなよ!」と思っていたことでしょう。
そして朝廷と沢庵和尚ら大徳寺の僧たちは幕府に対して抗議。
幕府と朝廷の仲が少しづつ悪くなっていきました。
②幕府の対応
こうした動きの中で遂に幕府がとんでもないことをやらかします。
1629年、なんと沢庵和尚始め幕府に抗議を行った大徳寺の僧たちが出羽、陸奥へと流罪をという大変重い処罰を幕府は行います。
もちろん天皇はこんなことを幕府から知らされていません。
幕府の権力を使った独断の行為でした。
紫衣事件の意義や影響
紫衣事件という事件自体は大変些細なものだったのですが、この事件によって『元々天皇の家臣であった征夷大将軍が作ったルールが天皇の意見よりも強くなった』という認識が強くなります。
つまり徳川家の権力が天皇を超えたということです。
これ以降二度と朝廷は幕府に逆らうことが出来なくなり、さらにて幕府はより一層朝廷のコントロールを強めていくことにつながっていくのです。
紫衣事件のその後
①後水尾天皇の譲位と天皇家のその後
幕府が天皇の意見を無視した事に大変な怒りとショックを受けた後水尾天皇は前の天皇である後陽成天皇と同じように譲位を幕府との相談なしに実行します。
ただ、後水尾天皇には男子の息子が数年前に亡くなっており、天皇になれる男子がこの当時いませんでした。
しかし後水尾天皇は譲位を止めようとせず、遂に次女であった明正天皇を即位させます。
女性の天皇即位は大変珍しいもので、これは称徳天皇(孝謙天皇)以来859年ぶりだったそうです。
さらにこの明正天皇。母親が徳川家の人だったのです。
あれ?この構図平安時代の摂関政治と大変似ていますね?
そのため明正天皇が即位してからはますます徳川家に逆らえなくなってしまったそうです。
それを表すものとして朝廷は幕府から禁裏御料という天皇の領地をもらいましたが、その石高はたったの3万石でした。
これは当時徳川家の領地400万石の1%にも満たず、そこら辺の大名よりも低いというレベルでした。
②沢庵和尚の帰還
沢庵和尚が出羽国に流されてから4年後の1632年、徳川秀忠が亡くなりました。
しかし、これがきっかけで沢庵和尚は突然許される事になるのです。
実は天皇や将軍などの偉い人が亡くなったり、逆に天皇や将軍などに子供が生まれると大赦という『特別に罪をチャラにしてあげますよ』という特別ルールが出され、罪が許されることがしばしばあります。
しかも運が良い事に秀忠の次の将軍である徳川家光は沢庵和尚と大変仲が良く、さらに家光に仕えていました。
そのため家光は紫衣事件で流されていた大徳寺の僧たちに大赦令を出して晴れて僧たちは大徳寺に戻ることを許されました。
さらに事件の発端となった大徳寺の僧に対する紫衣の授与も幕府から許可されて遂に念願の紫衣を正式に手に入れることができました。
まとめ
・紫衣事件は天皇が紫衣を大徳寺の僧たちに与えた事によって起こった朝廷と幕府の対立事件のこと。
・紫衣事件によって沢庵和尚ら大徳寺の僧たちが流され、禁中並公家諸法度が天皇の意見よりも上という認識が強まった。