【大坂の陣とは】簡単にわかりやすく解説!!背景や経過・勝敗結果・その後など

 

2017年の大河ドラマの主人公である真田信繁。

 

この武将が最後の戦いとして戦ったのがこの大坂の陣でした。

 

今回は戦国時代最後の戦である『大坂の陣』について、わかりやすい解説していきます。

 

大坂の陣とは

 

 

大坂の陣とは、1614年から1615年にかけて行われた徳川家と豊臣家との戦いのことです。

 

この戦いによって豊臣家は滅亡し、応仁の乱から続いていた戦国時代は終わりを迎えることになりました。

 

大坂の陣までの流れ

①関ヶ原の戦い後の豊臣家の立場

1600年に関ヶ原の戦いが勃発し石田三成が率いる西軍と徳川家康が率いる東軍が衝突しました。

 

 

結果は東軍の勝利。石田三成は処刑されてしまい徳川家康は3年後の1603年に幕府を開きました。

 

しかし、徳川家康はあくまでも石田三成を倒しただけで豊臣家を潰すことはしていません。

 

そもそも徳川家康が関ヶ原の戦い時点で豊臣家を潰すことは絶対にできません。

 

徳川家康は一応豊臣秀頼の家臣ですので、もし豊臣秀頼と戦うことになったら裏切り者となってしまいます。

 

 

(豊臣秀頼 出典:Wikipedia

 

 

さらに秀頼は秀吉から天皇の補佐の役職である関白を受け継ぐ立場にあるため、裏切り者だけではなく朝敵となってしまい、討伐命令が出された瞬間に徳川家は滅亡は確定です。

 

そこで徳川家康は、豊臣家の領地220万石を関ヶ原の戦いにおける報酬として豊臣家の領地を減らすという作戦を始めます。

 

結果的に豊臣家の領地は220万石から大坂65万石に減らすことに成功しました。

 

②家康の隠居と決意

(徳川秀忠 出典:Wikipedia

 

 

豊臣家の領地を減らすことに成功した徳川家康は、1605年に将軍職を息子の徳川秀忠にあげて、さらに自分の官位であった右大臣を秀頼にあげて自分自身はゆかり地である駿府(静岡市)に隠居します。

 

これは家康自身がもう歳だったこともありますが、2年で将軍職を息子に譲ることによって『これから将軍は徳川家が引き継いでいきますよ』というアピールを狙ったものと言われています。

 

さらに、この年には豊臣家に臣下の礼(簡単に言えば徳川家に従うというもの)を要求します。

 

もちろん淀殿と秀頼は拒否。徳川家の命令を突っぱねます。

 

なんで豊臣家はこんなに強気なのかは、この当時はまだ秀吉が育てた大名がまだいたからだと言われています。

 

そりゃまだ豊臣家を支えようとしている大名がいるのに豊臣家を潰そうとすれば、その大名が豊臣家につくのは当たり前のこと。

 

そのため、まだまだこの時は豊臣家と仲良くする方針を取っていました。

 

しかし、加藤清正・浅野長政・前田利長が亡くなると徳川家は遂に豊臣家を潰すことを決意しました。

 

③方広寺鐘銘事件

(現在の京都府にある方広寺 出典:Wikipedia

 

 

1614年、豊臣秀頼は方広寺という寺を再興させていました。

 

この方広寺が豊臣家と徳川家の対立が決定的なものとします。

 

問題となったのは方広寺の鐘に書かれている文字。この鐘の一部には『君臣豊楽』『国家安康』と書かれていました。

 

これは『君主と家臣が豊かになって楽になるように』と『国が安定して康らかになる』という意味でしたが、家康はこれを『豊臣家が君主となって楽する』と『家康を二つに分けて国を安定させる』という意味に捉えて豊臣家にいちゃもんをつけてきました。(方広寺鐘銘事件

 

 

もちろんこんなのは言いがかりです。

 

しかし、家康はこの言いがかりを元に豊臣家に・・・

✔ 今の大坂65万石から大和郡山に転封

✔ 淀殿を人質として江戸に向かわせる

✔ 秀頼が江戸に向かって臣下の礼を取る

の三択を迫ります。

 

この報告を受けて淀殿は激怒。豊臣家は秀吉が残した大量の遺産を使い10万の浪人を雇い徳川家との対決に備えました。

 

一方の徳川家も各地の大名から豊臣征伐のため出兵するように命令。遂に大坂の陣が始まることになりました。

 

大坂冬の陣の勃発

①徳川家と豊臣家の武将と大坂城

こうして始まった大坂の陣。

 

徳川家は全国の大名を大坂に向かわせます。

 

しかし、この時豊臣家に恩義があり裏切りをしかねない黒田長政(秀吉の軍師黒田官兵衛の息子)と福島正則は江戸でお留守番となっていました。

 

一方、豊臣家は・・・

・宇喜多家の元家臣の【明石全登】

・黒田家の元家臣の【後藤又兵衛】

・関ヶ原の戦いによって九度山に流されていた【真田信繁(幸村)】

・関ヶ原の戦いで西軍について改易となった元土佐の大名【長宗我部盛親】

・豊臣家の家臣であった【毛利勝永】

などなど、歴戦の浪人や元大名をかき集めてます。

 

しかし、豊臣家には大名は一人も付いていませんでした。

 

しかも肝心な戦の目標がバラバラ。いわゆる烏合の衆というやつでした。

 

②豊臣家最大の城「大坂城」

 

 

しかし、豊臣家には自信がありました。それは豊臣家最大の遺産である大坂城です。

 

この当時の大坂城は今の大阪城とは規模が桁違いで東や西や北は川で囲まれており、さらに唯一攻められる南は沼地という城を守るには絶好の立地でした。

 

そのため、大坂城に籠城すれば例え100万の軍が来ても大丈夫だと考えていたのです。

 

籠城戦というのは攻める側が圧倒的に不利な戦で、とある戦術家は『城を攻める時には守る軍勢の5倍の兵を集めないと落とせない』と言っているほどでした。

 

さらに家康はこの時73歳。いつ亡くなってもおかしくありません。

 

③大坂冬の陣

大坂についた徳川軍は豊臣家の砦を次々と落とし遂に20万の軍勢で大坂城を囲みました。

 

しかし、この時なんと徳川軍はとんでもないミスをやってしまいます。

 

なんと囲んでいる途中で大坂城に突撃したのです。

 

豊臣軍の真田信繁は大坂城の南に真田丸という巨大な砦を作っており、徳川軍は大損害を出して後退します。

 

思わぬミスをやってしまった徳川軍。そこで徳川軍は戦法を変えて毎日夜中に大声を出したり鉄砲や大砲を打ちまくります。

 

実は淀殿の籠城戦はこれで3回目。しかも籠城戦で父(浅井長政)と母(お市)が自害しており、籠城戦がトラウマでした。

 

そこで夜中に騒音を出すことで淀殿のトラウマを引き起こして降伏させようとしたかったのです。

(ちなみにこの騒音は大坂から約50キロ先の京都にも聞こえたとか)

 

さらに徳川軍は非常に運がいいことに打ちまくっていた大砲の弾が、なんと大坂城の天守閣に命中します。

 

この当時の大砲の命中率は非常に低かったのですが、それ以上に天守閣がデカすぎだのでしょう。

 

何がともあれ天守閣に大砲の弾が当たったことに淀殿は大パニック。急いで講和を結び大坂冬の陣は終わりました。

 

大坂夏の陣の勃発

(大坂夏の陣図屏風 出典:Wikipedia

 

 

豊臣家と徳川家の講和では・・・

 大坂城の二の丸と三の丸を潰し、大坂城の外堀を埋める

 淀殿or大野治長を人質にする

 雇った浪人の解雇

という条件で結びました。

 

結局終わったかに見えた豊臣家と徳川家の戦。

 

しかし、家康は自分が生きてる間に何としてでも豊臣家を潰さなければいけないと思っていました。

 

徳川家は大坂城の外堀だけではなく、内堀も埋めてしまい籠城戦をできなくしてしまいます。

 

さらに家康はまた浪人を雇っているといういちゃもんをつけて豊臣家に浪人の解雇or豊臣家の伊勢か大和へと転封を迫ります。

 

豊臣家はこの要求を拒否。これにしめた家康は再び15万の兵で大坂に向かいます。

 

一方の豊臣家は5万。さらに堀が埋められたため、籠城することができなくなり、兵が少なかったら圧倒的不利な野戦をしなければいけなくなりました。

 

結果的に言えば、豊臣家は多勢に無勢。徳川家の圧倒的な軍勢によって大坂城のすぐ近くまで押し込まれます。

 

この時に真田信繁を始め、有名な浪人はほとんど討死にしており、もはや大坂城がいつ落ちてもおかしくない状態となります。

 

そして遂に豊臣軍の裏切り者によって大坂城は燃え、遂に大坂城は落城してしまいます

 

豊臣秀頼と淀殿はそれに追うように自害しました。

 

 

(炎上する大阪城の様子 出典:Wikipedia

 

大坂の陣のその後

 

大坂の陣が終わってすぐ、豊臣秀頼の息子である国松が六条河原で斬首刑となり、豊臣家は遂に滅亡してしまいます。

 

これによって遂に徳川家に刃向かうことができる大名がいなくなり、100年以上続いた戦国時代は終わりを迎えました。

 

それを表す出来事に1615年元号が慶長から元和に変わっています。

 

この元和は正式にいうと元和偃武(げんなえんぶ)といい世の中が平和になったという意味です。

 

その名の通りこれから先日本は200年ほど平穏な時代を迎えることになるのです。

 

まとめ

 大坂の陣は豊臣家と徳川家が戦った戦のこと。

 勝敗は徳川家の勝利・豊臣家の負けとなった。

 この戦によって豊臣家が滅亡して戦国時代が終わった。