第二次世界大戦において戦った国は連合国と枢軸国なのですが、実はこの枢軸国が結成された同盟があり、これによってドイツや日本は大きな影響を受けることになっていきます。
今回はそんな大きな影響を与えた同盟である『日独伊(にちどくい)三国同盟』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
日独伊三国同盟とは?
(ヒトラーとの会談に臨む松岡洋右 出典:Wikipedia)
日独伊三国同盟とは、1940年に締結された日本・ドイツ・イタリアによる軍事同盟のことです。
この3国が枢軸国の主な国となり、第二次世界大戦を戦っていくことになっていくのでした。
日独伊三国同盟の結成までの経緯
(日本で作られた葉書 出典:Wikipedia)
①ソ連の脅威
1930年代後半になってくると日本の世界からの孤立化は激しいものになっていました。
1937年に日中戦争が始まり日本は中国沿岸部を一気に占領。快進撃を続けていましたが、これによって日本はアメリカとイギリスとの関係が急激に冷えきってしまいます。
そうなってしまうとアメリカとイギリスなどは日本との貿易をしなくなっていきます。日本からしたら戦車や軍艦などを動かす資源は、ほとんどアメリカなどの海外からの輸入を頼っていたのでこの貿易をしなくなるというのは日本からしたら大打撃です。
さらにイギリス・フランスなどは中国などに兵器などの物資支援を行ない中国を強化したりしていました。
日本は「このままではイギリス・アメリカによってジリ貧になってしまう!」と思い始め、なんとか同盟を結んでもらいイギリス・アメリカなどを牽制してほしいという思いがありました。
また、日本にとって厄介だった国がもう一ついました。ソビエト連邦(ソ連)です。
ソ連は共産主義という体制をとっている国であり、日本政府はソ連の影響によって共産主義の考えが広まり政府を転覆されてしまうことがあったら大変です。
ですから日本にとってソ連はなんとかしたい国の一つだったのです。
②ヨーロッパの情勢
アジアで日本が孤立していた一方、ヨーロッパでも、戦争が起こりそうな雰囲気がありました。
ドイツでは1933年にヒトラー率いるナチス党が政権を握り急速に軍国化を進めていました。
(アドルフ・ヒトラー 出典:Wikipedia)
ドイツは1938年にアンシュルスを行ない、オーストリアと合併。さらに1938年にはミュンヘン会談を行ない、チェコスロバキアのズデーテンランドという地域を獲得してどんどん東に領土を獲得していました。
イタリアでは1929年にムッソリーニが政権を掌握。ファシスト体制を整えてファシスト党の一党独裁を確立させます。
(ベニート・アミールカレ・アンドレーア・ムッソリーニ 出典:Wikipedia)
この二国には最大の特徴があります。それは両国ともにソ連が大嫌いだったこと。
ドイツはヒトラー自身が著書『我が闘争』の中に「ソ連を潰してドイツのゲルマン民族がする地域を拡大すべきだ」という東方生存圏というのを唱えていました。ナチスと言ったらユダヤ人を敵視して虐殺していたイメージが強いですが、実はロシアのスラブ人もユダヤ人同様敵視しており、この民族たちも虐殺すべきだとヒトラーはかんがえていました。
一方のムッソリーニもファシスト体制を揺らがそうとしている共産主義者を弾圧しており、この二国は防共同盟というソ連に対抗する同盟を組んでいました。
その後1940年にドイツ・イタリアに日本を加えた三国は同盟を結ぶこととなり、ソ連・イギリス・アメリカに対抗する日独伊三国同盟が成立していくことになるのです。
日独伊三国同盟に参加した国々とそれぞれの思惑(目的)
(ベルリンの日本大使館に掲げられた三国国旗 出典:Wikipedia)
①日本
日独伊三国同盟の日本の思惑は上に書いた通りソ連やイギリスやアメリカなどを牽制するためでした。
しかし、日本が三国同盟を結ぶちょっと前にドイツが独ソ不可侵条約というものを結びます。これはいわばドイツとソ連はそれぞれ戦うことはしませんよ!というもので日本はこれを「あのソ連をめちゃくちゃ嫌っていたドイツがソ連と不可侵条約を結んだ...?欧州情勢は複雑怪奇」と言って当時の日本の内閣総理大臣である平沼騏一郎は総理を辞任するほど衝撃なものでした。
しかし、1940年6月にドイツはフランスを降伏させると、再びドイツとの同盟をすべきだという声が出始め「バスに乗り遅れるな!」というスローガンを元に日本はドイツとの同盟を結ぶことにしました。
②ドイツ
日独伊三国同盟のドイツの思惑は日本の独ソ戦への参加でした。
「あれ?ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結んでいたのじゃないの?」と思いの方もいると思いますが、ドイツは本気でソ連と不可侵条約を結んでいるのではなく、あくまで第二次世界大戦においてフランス・イギリスとソ連の挟み撃ちを防ぐためのものでした。
ヒトラーからすれば日本が対ソ戦に参加することでソ連兵力が極東方面とヨーロッパ方面で分断され、さらに日本がシンガポールなどの極東の植民地などを獲得して物的支援を絶つことによって戦争を優位に進めることができると思っていました。
③イタリア
イタリアは1929年にムッソリーニによってファシスト体制に入ると1936年のエチオピア侵攻によって国際連盟を脱退したり、イギリス・フランスなどの国々から経済制裁を受けるようになり孤立を深めていっていました。
イタリアはそんな孤立化から脱出するために1936~1937年からドイツに接近。
1936年にベルリン・ローマ枢軸構想を掲げ(枢軸国という名前の由来)。1939年独伊軍事同盟条約(鋼鉄協約)を成立させドイツとイタリアの関係は強固な体制を確立させました。
イタリアからすると日独伊三国同盟はソ連の対抗策という思いは薄く、孤立化を防ぐものでした。
日独伊三国同盟の内容
日独伊三国同盟では・・・
❶ 日本はドイツとイタリアのヨーロッパにおける新体制を認める。
❷ ドイツとイタリアは日本が築こうとしている大東亜共栄圏という体制を認める。
❸ 日本とドイツとイタリアはどれか1ヶ国が攻撃されたら他の2国はその攻撃された国に宣戦布告し、さらに軍事と経済援助をする
という内容がきめられました。
特に覚えて欲しいのは3番目。この3番目がこの日独伊三国同盟のほとんどの内容だったといっても良いというほど重要なものです。
日独伊三国同盟の影響
①バラバラだった思惑と日ソ中立条約
日独伊三国同盟は1940年に成立しました。
しかし、この日独伊三国同盟はとんでもない方向へと舵を切り始めます。
日本はなんと1941年に日独伊三国同盟にソ連を加えようとする案が出てきてこれが会議で承諾。松岡外相はソ連に行き交渉を始めます。
その結果、ソ連との交渉は上手くいき、1941年4月に日ソ中立条約を締結してソ連と日本は中立を結ぶことになりました。
(日ソ中立条約締結の様子 出典:Wikipedia)
日本からしたらソ連と中立条約を結んでイギリスやオランダの植民地がある南方へと進出したかったと思いますが、日ソ中立条約締結の2ヶ月後ドイツは独ソ不可侵条約を破り、ソ連に侵攻。独ソ戦が始まります。
これによってドイツの思惑が根底から崩壊する大きな誤算が生まれます。
ドイツからしたらドイツが快進撃を続けている時に日本がウラジオストクを攻撃し、シベリアに侵攻すればソ連はたちまち崩壊すると踏んでいました。しかし、日本とソ連が中立条約を結んだ以上日本が独ソ戦に参戦することは出来ません。
これはソ連にとってはラッキーなことで、これによって極東に置かれていた大量のソ連の軍隊を独ソ戦に投入できるようになり、独ソ戦はたちまちソ連の有利となってしまいました。
②アメリカの参戦
さらにドイツの頭を抱えさせる出来事を日本は引き起こしてしまいます。1941年12月、日本による真珠湾への攻撃。アメリカとの戦闘状態に突入しました。
これによって日本が参戦したのだから、ドイツはアメリカに宣戦布告をしなくてはいけなくなり、ドイツは絶対に避けたかったであろうアメリカの参戦を招いてしまいました。
イギリスの首相であるチャーチルはこの報告に対して「これで戦争は勝てる!」と発言するほど。連合国からしたらアメリカの参戦は神からの助けと同じだったのでしょう。
日独伊三国同盟のその後
もはや同盟の意味がなくなってしまった日独伊三国同盟ですが、本気を出したアメリカと本気を出したソ連の2国にドイツや日本が勝てるわけがありませんでした。
1942年にミッドウェー海戦で日本が敗れ太平洋の制海権を失い、さらに1943年にはイタリア降伏。日独伊三国同盟はどんどん劣勢になっていきます。
1944年にはソ連の総反撃が始まり、どんどんドイツは首都であるベルリンへと後退していきます。
対する日本ももはや勝てる戦はなくどんどん日本本土に後退。アメリカに勝つのは絶望的でした。
そして1945年4月首都ベルリンが陥落し、5月にドイツ降伏。8月には日本が降伏し、同盟を結んだ3国は全部降伏しました。
まとめ
・日独伊三国同盟は日本とドイツとイタリアとの間で結ばれた軍事同盟のこと。
・日独伊三国同盟はどれか1ヶ国が攻撃されたら他の2国はその国に宣戦布告するというものがあり、そのおかげでドイツとイタリアはアメリカに宣戦布告をしなければいけなくなった。
・ドイツはソ連に対抗するために結んでいたが、日本が日ソ不可侵条約を結んだことによって意味がなくなってしまった。
・日独伊三国同盟を結んだ3国は全部1945年にアメリカとソ連などの連合国に降伏した。