1898年6月30日に成立した第一次大隈内閣は、日本で初めての政党内閣でした。
ところが、同年11月8日にわずか4ヶ月という短期間で崩壊。そのきっかけとなったのが、共和演説事件でした。
今回は、そんな『共和演説事件』についてわかりやすく解説していきます。
目次
共和演説事件とは
(尾崎行雄 出典:Wikipedia)
共和演説事件とは、第一次大隈内閣で文部大臣であった尾崎行雄が行った演説が問題となり、日本で初めての政党内閣である大隈内閣が瓦解した事件です。
1898年(明治31年)に、帝国教育会茶話会で尾崎行雄が演説をします。アメリカの共和制を例えにとって、当時の日本に蔓延していた財閥中心の金権政治を批判した内容でした。
ところが、この内容が「不敬」として宮内省から非難の声が上がります。また、この内閣をよく思っていなかった枢密院や貴族院からも批判の声があがり、尾崎行雄は大臣を辞任します。
その後、後任を巡って内閣内で対立があり、結局、大隈内閣は崩壊するのです。
共和演説事件は、なぜ起こったのか?
尾崎行雄の演説が、内閣を退陣させるまで大きな事件となったのは、どのような背景があったのでしょうか?
①演説の内容
尾崎が行った演説は以下のようなものでした。
『アメリカではお金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人のほうが多い。今、日本で共和制になるということはないが、もしも共和制になったら、おそらく三井や三菱が大統領候補になるだろう。アメリカでは、そんなことはできない。』
尾崎行雄は当時の財閥を中心とした金権政治を批判するつもりが、日本が共和制になったらというところで、天皇に敬意を欠いたとして「不敬」と宮内省から批判がでます。
②金権政治とは
明治維新が始まり、日本は西欧に追いつけと、近代国家の道を歩み始めます。資本主義育成、富国強兵、文明開化など西洋の制度や文化を吸収するようになりました。
その中で、江戸末期から幕府と結びつきが強かった商人が明治に入り、財閥として政治にも大きな影響を与えていきます。
その代表的な存在が三井、住友、三菱です。明治以降、国は鉄道、汽船など交通網を発達させ、鉱山、製糸業など官営工場を開設していきます。
産業育成の背景には、財閥の存在が不可欠です。こうした政策の中で、財閥は政治家と結びつきを強め、汚職、腐敗が横行することになりました。
③なぜ「不敬」となったのか。
明治政府は江戸幕府の権力を天皇に移行することで始まりました。
そのため、最終的に明治天皇が国のあらゆることを決める権限を持っていました。それほど、天皇の位は高くて強いものだったのです。
共和制というのは、それとは反対にある制度で、国に関わることは国民が決めるという制度です。
尾崎行雄は演説の中で、「日本が共和制になることはないが、」という前置きをしているのですが、「もし、共和制になったら」という発言で、天皇を否定していると誤解されてしまい、「不敬」という批判を受けることになってしまったのです。
なぜ尾崎行雄は辞任することになったのか?
天皇を否定するような発言をしたと誤解されてしまった尾崎行雄は、文部大臣を辞任に追い込まれます。
どのようにして辞任に追い込まれたのでしょうか?
①隈板内閣の存在
(大隈重信 出典:Wikipedia)
1898年6月に成立した第一次大隈内閣は別名、隈板内閣と呼ばれています。首相の大隈重信、内務大臣の板垣退助の名前から、「隈」と「板」を取ってつけられた名です。
この内閣は与党である憲政党を中心に組閣されましたが、憲政党は内部に旧進歩党と旧自由党という派閥を抱えていました。
尾崎幸雄は旧進歩党派でした。尾崎の演説が批判されると、憲政党内の旧自由党派である星亨が陸軍大臣の桂太郎と尾崎を排除する計画に出ます。さらに、東京日日新聞も尾崎攻撃を始めます。
②憲政党とは
憲政党は、大隈重信が率いる進歩党と板垣退助が率いる自由党が合同して作られた政党です。
明治が始まり、藩閥政治が続いたことに反発して結成されたこともあり、憲政党内部では政策や人事などをめぐって、旧進歩党派と旧自由党派の対立が絶えませんでした。
そして、尾崎幸雄の共和演説事件が起こり、その対立はさらに深まっていきます。
演説後、批判が高まって尾崎は参内して明治天皇に謝罪しますが、憲政党内からの助け舟はなく、明治天皇が内閣の不信任を決めると、辞任に追い込まれました。
③進歩党と自由党
自由党は1890年に結成されました。結成時は、立憲自由党という名前でしたが、1891年には、板垣退助を党首に迎え、自由党となります。
自由党は、第一回帝国議会で第一党になるほどの勢力であり、政党内閣を目指していました。
一方、進歩党は1896年に結成されました。自由民権運動の中心であった立憲改進党の流れも汲んでおり、大隈重信が事実上の党首でした。1898年に組閣した第二次松方内閣に大隈は外務大臣として入閣しますが、松方内閣が薩摩藩に基盤をおいていることに反発して、野党に回ります。
共和演説事件のその後
尾崎行雄が辞任に追い込まれたあと、隈板内閣は退陣せざるをえなくなります。そこには、憲政党内部の対立がありました。
①隈板内閣の退陣
憲政党は、藩閥政治に反発する進歩党と藩閥政治から脱皮して近代的な政党内閣を目指す自由党が合同して作られましたが、対立は消すことができませんでした。
尾崎が辞任すると、その後任を巡ってさらに対立は激しくなります。結局、合意を見出せないまま、大隈が独断で進歩党派から犬養毅を後任に推します。
ところが、就任式当日に内務大臣の板垣が反対をして、翌日には自由党派の三大臣が辞任します。それを機に、憲政党内部も分裂して、大隈内閣はわずか4ヶ月で退陣を余儀なくされました。
②第二次山県内閣の成立
(山県有朋 出典:Wikipedia)
大隈内閣が崩壊した後、できたのは第二次山県内閣です。貴族院の山県有朋を内閣総理大臣に迎え、組閣された大臣たちは旧長州藩、旧薩摩藩を中心とした人物でした。
藩閥政治に反発して成立した大隈内閣は、日本で初めての政党内閣でしたが、その退陣の後再び藩閥政治が復活したような形でした。山県有朋は長州藩出身であり、自分に近い人物を大臣に据えたのです。
また、政党勢力を遠ざけるために、文官任用令を改正して、政党員が官僚になることを制限していきます。
③伊藤博文の内閣
第二次山県内閣は政党を排除する組閣を行いますが、逆に衆議院からの反発を招きます。
憲政党(分裂した憲政党のうち、旧自由党派により引き継がれる)は反山県の伊藤博文と共に立憲政友会を結党します。
衆議院を敵に回した山県内閣は政権運営が困難になり、伊藤博文に政権を引き渡します。立憲政友会が与党になる政党内閣が再び誕生する形となりました。
組閣に際しても、多くの大臣が立憲政友会から採用されています。このように、この時代の内閣は藩閥政治から政党政治への移行期と言えますが、各政治勢力による権力争奪戦でもありました。
まとめ
・共和演説事件とは、1898年8月21日に文部大臣である尾崎行雄が演説した内容が「不敬」と批判された事件である。
・演説内容は、当時の財閥による金権政治を批判したものであった。
・この事件の影響で、日本最初の政党内閣である隈板内閣がわずか4ヶ月で退陣する。
・尾崎行雄は、明治天皇に直接謝罪するが、辞任に追い込まれた。
・隈板内閣の後の山県内閣は、政党排除の内閣を成立させた。
・山県内閣は、政党員が官僚にならないよう、文官任用令を改正した。