【開拓使官有物払下げ事件とは】簡単にわかりやすく解説!!風刺画や語呂合わせも!

 

明治政府は北海道開拓を本格化し、「開拓使」を設置しました。

 

開拓使は北海道で農業や畜産、酒造といった殖産興業の発展に努めます。

 

しかし、開拓使官有物払下げ事件によって開拓長官で早期国会開設に乗り気ではなかった黒田清隆が辞任し、さらに明治十四年の政変につながっていきます。

 

今回は、この『開拓使官有物払下げ事件』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

と・・・その前に。少し前ですが「森友学園問題」がありました。

 

この森友学園問題は開拓使官有物払い下げ事件に非常に似ていますので、はじめにこちらを解説していきます。

 

森友学園問題とは

(国有地に建設中であった瑞穂の國記念小學院 引用:Wikipedia

 

 

この問題は、国の土地が格安で籠池氏が理事長を務める学校法人森友学園に払い下げられてしまったというものです。

 

どこが問題なのかというと、「国の土地のも関わらず、優先的にしかも格安で森友学園に払い下げられてしまった」というところです。

 

国の土地ですから本来であれば、誰にでも公平に購入できる権利があるにもかかわらず、森友学園よりも高値を提示した業者には売られずに、なぜか森友学園が購入することになりました。

 

しかも、そこからさらにゴミが出たとして10億円弱の価値があるとされた土地が最終的には実質224万円で森友学園に売られてしまったのです。

 

さらに森友学園理事長と政治家が癒着(ゆちゃく)、簡単に言ってしまうと仲が良かったのではないかということも疑われていますよね?

 

これはつまり、本来は離れているはずの「民(森友学園)」と「官(政治家)」が癒着して起こった問題ということです!

 

★払い下げ…政府から民間に売り渡すこと。

 

開拓使官有物払い下げ事件とは

(黒田清隆 出典:Wikipedia

 

 

森友学園問題と同じ「官民癒着(かんみんゆちゃく)問題」です。

 

1871(明治14)年、薩摩藩出身の開拓長官であった黒田清隆が、1872(明治5)年からの開拓10年計画の終了にあたって、約1500万円かかった北海道開拓の官営事業を同じく薩摩藩出身で政商の五代友厚が立ち上げた関西貿易社に払い下げたのです。

 

(※政商・・・政治家とつながりを持ち、特権を得ている商人のこと)

 

その金額が約40万円、無利息で30年返済という普通では絶対にありえない条件だったため問題となりました。

 

最初、政府はこの払い下げを認めたのですが・・・

 

大隈が党首を務める立憲改進党の機関紙「郵便報知新聞」ともう一社がこの情報をかぎつけて「官民癒着事件」として大々的に取り上げました。

 

これにより、黒田清隆が辞任します。

 

つまり、政治家である黒田清隆が、出身地が同じで仲の良い政商の五代友厚に国が行っている事業を特別待遇で払い下げてしまったということです。

 

「開拓使官有物」とは?

北海道の殖産興業発展のために開拓使が建てた北海道開拓物取扱所の官舎、倉庫、土地、工場のことです。

例えば、現在サッポロビールになっている「開拓使麦酒造所」もその一つです。

 

開拓使官有物払下げ事件の風刺画

(風刺画 引用:Yahoo知恵袋)

 

 

この事件は風刺画でも面白おかしく描かれています。

 

良い知らせを待っているタイ(五代友厚)へ、払い下げ命令書を持ったタコ(黒田清隆)が自分の周りをやかましく飛び回っているカラス(新聞・雑誌・商人・演説など)に対して不吉な感じを持ちながらも向かっていく様子が描かれています。

 

明治十四年の政変につながった理由

 

その理由は2つあります。

理由

①政府内で国会開設について急進派と漸進派が対立をしていた

②当時社会に大きく影響力を持っていた「新聞」が「早く国会開設するべき!」と主張した

 

ではそれぞれ見ていきましょう。

 

①政府内で国会開設について急進派と漸進派が対立をしていた

1879(明治12)年~81(明治14)年にかけて伊藤博文ら薩長出身の政府幹部たちが立憲政治についての意見書を出していたのですが、そのほとんどが時間をかけてしっかりと準備をする「漸進的国会開設」論で、さらに井上毅の意見を重視してドイツ風の天皇を中心とした欽定憲法を制定するべきと主張していました。

 

しかし、急進派 大隈重信が反対します。

 

1881(明治14)年2月 「2年後には国会を開設し、福沢諭吉の意見を重視して議院内閣制(イギリス流政党政治)を取り入れるべきである」との意見書を提出したのです。

 

つまりお互い真っ向から対立してしまったのです。

 

②当時社会に大きく影響力を持っていた「新聞」が「早く国会開設するべき!」と主張

当時マスメディアは新聞くらいしかありませんから、社会的影響力は非常に大きかったのです!

 

もともと自由民権運動や国会開設運動が各地で頻発している中で開拓使官有物事件が起こってしまったので、新聞社は「このような事件が起こらないためには国会開設を早めるべき」と主張しました。

 

これにより国民の間で国会開設をしようという雰囲気がさらに加速していったのです。

 

新聞に関しては民権運動の高まりの中で反政府的な意見がこれ以上広まらないように「新聞紙条例」を出して、反政府的記事を取り締まるほどでした!

 

一方で新聞の持つ影響力を利用して各政党が機関紙を作っており、大隈重信が党首を務める立憲改進党も機関紙「郵便報知新聞」を作っていました。

 

明治十四年の政変の詳細

明治十四年の政変とは、以下のことを指します。

明治十四年の政変

開拓使官有物の五代への払い下げを中止。

大隈重信の罷免(職務から外すこと)。

国会開設の勅諭(1012日発布)。

 

大隈重信が罷免された理由は、国会開設急進派の意見を通すために払い下げのことを新聞社に教えて国民の政府批判をあおり、政治を揺るがした責任を取らせるという名目でした。

 

大隈重信を罷免することで伊藤博文が中心となって薩長藩閥政府を作り、払い下げ中止と国会開設の勅諭を出すことで国民の政府批判を抑えることに成功しました。

 

国会開設については10年後の1890(明治23)年に開設すると天皇から直々におふれが出ましたので、国民は誰も文句を言えませんね?

 

つまり、伊藤博文ら薩長出身者が払い下げ事件をきっかっけに政府内の人材を入れ替えて自分たちのやりやすい環境を作り、国会開設や憲法などの内容を漸進論のまま推し進めることに成功した政変だったということです。

 

 

開拓使官有物払下げ事件の語呂合わせ 

 

「タイとタコは、北海道の旅行代支払わない」

 

・タイ:五代友厚 ・タコ:黒田清隆

・北海道:開拓使 ・払:払い下げ ・わない:(1)871

 

無理やりですが、参考までに!

 

まとめ

・開拓使官有物払下げ事件は、薩摩出身同士の官民癒着事件のこと。

・明治十四年の政変のきっかけとなる事件となった。