鎌倉時代に起こった承久の乱。鎌倉幕府と朝廷との戦いで、この戦いの結果がその後の政治に大きな影響を与えることになった重要なものです。
今回はそんな『承久の乱(じょうきゅうのらん)』がなぜ起こったか、理由や経過・その後の影響など簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
承久の乱とは
(後鳥羽上皇 出典:Wikipedia)
承久の乱とは、1221年(承久3年)に後鳥羽上皇を中心とした朝廷と北条義時を中心とした幕府軍が戦った乱のことです。
後鳥羽上皇が朝廷の権力を取り戻すことを目的として戦いを始めましたが、幕府軍に敗れ島流しに遭い、幕府の力がさらに強まることになりました。
承久の乱が起こるまでの流れ
(鎌倉幕府を開いた源頼朝 出典:Wikipedia)
①鎌倉幕府の始まりと朝廷との対立
鎌倉時代が始まる前、平安時代の終わりごろは天皇や天皇の位を譲った上皇が中心となり朝廷が日本を治めていました。
しかし徐々に武士が力をつけ始め、特に平清盛が率いる平氏は朝廷以上の権力を持つことになります。さらに源頼朝はこの平清盛を倒し1185年に鎌倉幕府を作りました。
鎌倉幕府は関東に作られましたが、朝廷は京都にあったため幕府の力は東日本、朝廷の力は西日本に広がりその結果、幕府と朝廷という2つの勢力が日本を支配するようになりました。
②北条氏の台頭
鎌倉幕府を作り将軍となった源頼朝ですが、その少し後に落馬による事故で亡くなってしまいます。
そこで力をつけたのが北条氏です。北条氏というのは頼朝の妻、北条政子の実家です。北条政子は頼朝が力をつける前から支え続け、「尼将軍」とも呼ばれる強い女性です。北条氏自体も頼朝に協力し、鎌倉幕府ができた後は有力な武士となっていました。
頼朝が亡くなった後、その息子である源頼家が後を継いで将軍となりましたが独裁的な政治を行う頼家は北条政子の父である北条時政によって将軍の地位を追われ、最後には暗殺されてしまいます。頼家は実の祖父に暗殺されたことになります。
そしてまだ幼い弟の源実朝が3代目の将軍となると北条時政は執権という立場につき、政治の実権を握ることになりました。
③後鳥羽上皇の考え
鎌倉幕府が誕生したとき朝廷で最も権力を持っていたのは天皇よりも上の位に就いていた後鳥羽上皇でした。
後鳥羽上皇は学問も武芸も優れた人物でしたが、プライドが高く、後鳥羽上皇を始めとした周辺の貴族たちは「日本でいちばん偉いのは天皇なのに、なぜ武士があんなに偉そうなのか」と鎌倉幕府に対して不満を募らせていました。
また朝廷に年貢を納めない武士と衝突することもあり、後鳥羽上皇はますます鎌倉幕府を排除し、朝廷が再び日本全国を支配することを考えるようになります。
④鎌倉幕府の混乱と後鳥羽上皇の挙兵
源実朝が3代目将軍となり、2代目の執権には北条時政の息子、政子の弟である北条義時がなっていました。
しかし、なんと実朝も暗殺されてしまうのです。これは2代目将軍頼家の息子である公暁が父親の仇を討とうと行ったものでした。
実朝も殺されたことで頼朝の子供はいなくなり、将軍に就ける人物がいなくなった鎌倉幕府は大混乱します。
北条義時は後鳥羽上皇の息子を将軍にするよう後鳥羽上皇に依頼しますが、後鳥羽上皇はこれに応じませんでした。北条義時は軍を送って武力で圧力をかけましたが、後鳥羽上皇はやはり拒否し、鎌倉幕府は別に将軍を探さなければいけなくなりました。
この対立で後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すことを決意し、この混乱を鎌倉幕府を倒すチャンスと考え、承久の乱が始まったのです。
承久の乱の経過
①後鳥羽上皇の院宣
1221年5月に後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。京都近隣の武士が中心となり幕府を倒すために挙兵したのです。
院宣を出した後鳥羽上皇は「朝廷の命令なら全国の武士も従って、鎌倉幕府を倒すだろう」と考えていました。
また、鎌倉幕府の武士たちも実際に激しく動揺します。そんなときに北条政子が演説を行ったのです。
②北条政子の演説
北条政子の演説の言葉として「故頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」という有名なものがあります。
一致団結し、鎌倉幕府を開いた源頼朝への恩を返すときだ、という内容でした。これに感動した武士たちは北条氏につくことを決めますが、それだけでなく、多くの武士たちは朝廷と幕府のどちらにつくのが有利か考え、幕府につくことを選んだと言われています。
そして北条義時の息子である北条泰時を中心とした幕府軍は鎌倉を出発し、さらに全国からも武士たちが集まり約20万人にも膨れ上がります。
院宣の効果を信じ、のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、大多数の武士が上皇の呼びかけに応じない結果となりました。幕府と朝廷の力の差は歴然でわずか1ヶ月で京都は幕府軍に占領され、朝廷の敗北で承久の乱は終わりました。
承久の乱のその後
①島流しされた後鳥羽上皇と幕府の支配
承久の乱が終わった後、7月に乱の首謀者である後鳥羽上皇は隠岐(島根県)、その息子である順徳上皇は佐渡島(新潟県)に島流しにされました。
また、乱に関わっていなかった息子の土御門上皇は父親が島流しにあったのに自分だけ京都に残ることはできないと、自ら希望して土佐(高知県)に流されました。
他の息子たちや朝廷に味方した貴族・武士たちも処罰され、貴族たちが所有していた土地3000箇所が幕府に没収され、幕府方の武士たちに分け与えられました。
貴族たちが所有していた土地は西日本が多かったため、土地を分け与えられた武士たちが西日本に移り住み、その結果、幕府の支配が西日本や朝廷のある京都付近にも強く及ぶようになりました。
②六波羅探題の設置
承久の乱後、鎌倉幕府は朝廷や西日本を監視する目的で六波羅探題を設置しました。朝廷が再び乱を起こすことを警戒したためです。
また幕府に味方する貴族が朝廷を治めるようになり、実質、朝廷も幕府に支配されることになりました。
こうして承久の乱をきっかけに朝廷の力は弱まり、幕府は天皇の後継者などにも口を出すようになり、鎌倉幕府の力がますます強くなっていくのです。
まとめ
・承久の乱とは1221年に後鳥羽上皇と北条泰時が戦ったもの。
・承久の乱とは朝廷の力を取り戻す目的で後鳥羽上皇が始めた。
・後鳥羽上皇は院宣を出し、北条氏を倒そうとしたが北条政子の演説をきっかけに武士が団結し敗れた。
・承久の乱後、後鳥羽上皇は島流しされ、京都に六波羅探題が設置された。