中大兄皇子、中臣鎌足らが起こしたクーデター「乙巳の変」。
この乙巳の変をきっかけに日本は唐にならった律令国家の建設に乗り出します。
今回はそんな日本の転換点のひとつでもある『乙巳の変』についてわかりやすく解説していきます。
目次
乙巳の変とは
(乙巳の変 出典:Wikipedia)
乙巳の変(いっしのへん)とは、皇極天皇の時代、645年に中大兄皇子と中臣鎌足らが、聖徳太子の死後ずっと政治の実権を握っていた蘇我氏に対して起こしたクーデターのことです。
皇極天皇の住む場所「飛鳥板蓋宮」で蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害しました。
後を追うように、入鹿の父蝦夷(えみし)も自害し、蘇我氏は滅亡しました。
その後、中大兄皇子らは天皇に権力を集中させ、律令で統治する律令国家の建設を目指します。この政治改革が大化の改新と呼ばれています。
おさらいすると、645年中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿を暗殺したクーデターが乙巳の変。乙巳の変後の政治改革が大化の改新です。
乙巳の変の原因
(中大兄皇子 出典:Wikipedia)
中大兄皇子と中臣鎌足らが乙巳の変を起こしたのは、天皇中心の律令国家建設を目指すためです。
中大兄皇子たちは、蘇我氏が実権を握る政治のままでは、隣の大国、唐には到底かなうはずもなく、もし、唐に攻められたら日本はひとたまりもないという危機感を持っていました。
(臣鎌足 出典:Wikipedia)
そうならないために、一刻も早く、天皇中心の律令によって国を治める律令国家の建設にとりかかりたかったのです。
そんな中大兄皇子たちにとって、律令国家建設に反対する姿勢をとり、政治の実権を握っていた蘇我氏の存在は邪魔だったわけですね。
乙巳の変が起こるまで【背景や内容】
(聖徳太子 出典:Wikipedia)
①蘇我氏の独裁
絶対的なカリスマ聖徳太子が死んだ後、政治の実権を握ったのが蘇我氏。
聖徳太子とともに推古天皇を支えた蘇我馬子の子ども蘇我蝦夷 (えみし)と、孫の入鹿 (いるか)が権力を独占しました。
推古天皇の後継者を誰にしようか?と決める時も、聖徳太子の子ども山背大兄王(やましろのおおえのおう)が候補に挙がると蝦夷と入鹿は猛反対しました。
なぜなら、蘇我氏の権力が弱まり、政治の実権を握れなくなるのをさけたかったからです。そこで、蘇我氏の息のかかった舒明(じょめい)天皇を即位させ、蘇我氏の独裁政権を維持しました。
しかし、641年舒明天皇が死去すると再び後継者問題が浮上。今度こそ次期天皇は山背大兄王と思われましたが、蘇我氏は、舒明天皇の奥さんを次の天皇、皇極天皇としました。
さらに、蝦夷と入鹿親子は、643年、目の上のたんこぶである山背大兄王を妻子ともども自殺に追い込み、皇極天皇の次の天皇として古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を擁立。蘇我氏の独裁体制を維持する基盤固めを行いました。
②唐の影響
蘇我氏の独裁体制に危機感をいだいたのが、中大兄皇子と中臣鎌足でした。
このまま蘇我氏がトップにいたら、隣の大国唐が攻め込んで来たら日本がひとたまりもないことがわかっていました。
そんな最悪の状況を避けるため、一刻もはやく、唐に負けないような天皇に権力を集め律令に基づいて統治する天皇中心の律令国家を建設したかったのです。
③大兄皇子らのクーデター乙巳の変
志しを同じくする中大兄皇子と中臣鎌足は、権力にこだわり律令国家の建設に反対する入鹿を飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)に呼び出しました。
その中の大極殿(だうごくでん)という大広間、いわば皇居のど真ん中で堂々と入鹿を殺害しました。
この中大兄皇子らのクーデターが乙巳の変です。
入鹿の死後、蝦夷も追い詰められて自害。こうして、馬子、蝦夷、入鹿と3代にわたって権力を独占していた蘇我氏が滅亡しました。
乙巳の変の中心人物である中大兄皇子にとって、蘇我氏は、天皇中心の律令国家の建設の邪魔者であるうえ、自分の命を奪いかねない危険な存在でもありました。
実は中大兄皇子は、舒明天皇と皇極天皇の子ども。つまり次期天皇の有力候補だったわけです。
しかし、舒明天皇には母親が異なる皇子がいて、その皇子こそが蘇我氏が次期天皇に推していた古人大兄皇子でした。
つまり、蘇我氏がいると中大兄皇子は天皇になれないだけでなく、暗殺される可能性もあったのです。
そういった面からも蘇我氏は中大兄皇子にとって消えて欲しい存在だったわけですね。
乙巳の変のその後
皇極天皇にかわり弟の軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位しました。
元号を大化に定め、都を飛鳥から難波に移し、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)を建てました。ちなみに、日本史上に初めて登場した元号が大化です。
乙巳の変の後、中大兄皇子は皇太子・中臣鎌足は天皇の補佐役内臣(うちつおみ)に就任。
さらに、最高官職であった大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)を廃止して、左大臣、右大臣を新設。
初代左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が就きました。
また、新政府の最高顧問に国博士(くにのはかせ)という役職が設けられ、僧旻 (そうみん) と高向玄理 (たかむこのくろまろ) を任命しました。
こうして、天皇中心の律令国家実現にむけた体制が整えられました。
乙巳の変の翌年、646年には、新政府の基本方針4か条を示す改新の詔を発表。詔とは天皇の言葉、天皇の命令という意味です。
改新の詔で示された4か条は・・・
✔ 公地公民制(豪族の土地私有を禁じ、土地人民は国のものとした)
✔ 国郡制 (都の周辺を畿内とし、全国を国と郡に分けた)
✔ 戸籍の作成および班田収授法(戸籍をつくり、人々に口分田を貸した)
✔ 租調庸の税制(口分田を与えられた人は税を納めることとした)
この改新の詔で示された国づくりの方針は、およそ50年後の701年大宝律令の制定により実を結ぶことになります。
乙巳の変の語呂合わせ
乙巳の変の年号は
「入鹿を無視して殺した乙巳の変」
と覚えましょう。
※「入鹿を無視(64)して殺(5)した乙巳の変」
まとめ
・645年中大兄皇子と中臣鎌足らが飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を殺害した事件のこと。
・政権を握っていた蘇我氏から実権を奪い、天皇に権力を集中させた律令国家を建設することが目的だった。
・乙巳の変によって、蘇我氏が滅んだ。
・乙巳の変後、中大兄皇子は皇太子に、中臣鎌足は天皇の補佐役内臣に就任した。
・乙巳の変後に孝徳天皇のもと行われた公地公民などの政治改革を大化の改新という。