今回は江戸時代、国学者たちによって提唱された“復古神道”とはどのような思想だったのか、時代背景や提唱した人物たちを詳しく解説していきます。
目次
復古神道とは
(本居宣長旧宅 出典:Wikipedia)
江戸時代の国学者によって唱えられた神道です。主に賀茂真淵、本居宣長らの国学者が体系をつくり、その後平田篤胤や本田親徳らによって発展しました。
儒教や仏教など、外来思想に影響されない日本古来より伝わる純粋な信仰を崇める神道を指します。
復古神道が生まれた時代背景
復古神道はどのようにして生まれ、国学者たちに説かれることになったのでしょうか。その時代背景となる江戸時代のふたつの文化を追っていきましょう。
①元禄文化と垂加神道
江戸時代前期(1688年〜1704年)、上方(京都や大阪)を中心に元禄文化が栄えました。
元禄文化は都市部の町人の台頭により、学問や芸術など、様々な面で発展していきます。町人(民衆)の情緒を作品化したものが多く存在し、当時の社会の現実を見据えた文芸作品が多く生み出されました。
元禄文化が栄えていた頃、朱子学者の山崎闇斎が、儒教と神道をひとつにした「垂加神道」を提唱しました。朱子学、陰陽学、易学が取り入れられた垂加神道は、天照大御神への信仰、また天照大御神の子孫とされる天皇への信仰、そして神道と儒教の合一を主張したものでした。
この神道説は、のちの尊王思想に大きな影響を与えることになります。
②化政文化の発展
江戸時代後期(1804年〜1830年)になると、江戸を中心に化政文化が栄えます。
化政文化は、町人を中心とした文化で、享楽的な作品が多く生まれました。化政文化では国学が発展し、古代日本人の精神を研究するとともに、古代文学の『古事記』や『日本書紀』などの研究が進められました。
国学者の賀茂真淵は儒教や仏教など、海外で生まれた思想に影響を受けない日本古代の思想を追求しました。そして、賀茂真淵は国学を体系化し、学問として完成させたのです。
賀茂真淵の門人である本居宣長は『古事記』の研究をすすめ『古事記伝』という注釈書を完成させました。
このように、この頃の国学では古代における日本人の思想を改めて研究し、古代の日本人と神との繋がりを学問として大成させたのです。
神道とは
(樹齢約3000年の武雄神社の御神木 出典:Wikipedia)
そもそも、復古神道の“神道”とは一体どういうものなのでしょうか。
①日本の宗教
仏教の釈迦のように、宗教には開祖がいることがほとんどですが、神道に開祖は存在しません。
神道は、神話や自然現象、八百万の神などに基づいた多神教です。起源は古代日本まで辿ることができます。
②随神の道
神道とは、森羅万象すべてを神々の意志として体現し、享受する「随神の道(かんながらのみち)」(神と共にあるという意味)であるとされています。
日本民族が古代から持っていたこの精神は、復古神道でも重要視されていました。
③神道の聖典『古事記』と『日本書紀』
神道にとっての聖典(神典)は『古事記』や『日本書紀』などの古典が挙げられます。
『古事記』は日本で最も古い歴史書といわれ、主に国内に向けて日本という国がどのようにして出来たかという歴史が、神話を中心に描かれています。
一方『日本書紀』は、日本で最も古い正史(国家がつくった歴史書)で、国外に日本とはどのような国であるかを知らしめるために書かれました。そのため、本文も漢文で書かれました。
どちらも日本という国がどのようにして生まれ、栄えたのかという神話が掲載されています。この神話に登場する神々こそが、神道でも崇められる八百万の神々なのです。
復古神道を唱えた人物たち
それでは、復古神道を提唱した江戸時代の国学者とは、一体どのような人物だったのでしょうか。
①賀茂真淵
(賀茂 真淵 出典:Wikipedia)
江戸時代中期の国学者で、荷田春満の門人でした。『万葉集』などの古典作品を研究しながら、古代日本人の精神も研究していました。
また、朱子学の道徳を否定し、古代日本人の作為なき自然な心情や態度こそが、人間の本来あるべき姿だとして、古道説(仏教や儒教など外来の宗教を排除して、『古事記』や『日本書紀』などの古典に根拠を置く神道)を確立しました。
②本居宣長
(本居 宣長 出典:Wikipedia)
江戸時代中期の国学者で、賀茂真淵の門人でした。本居宣長は『古事記』の研究に約35年費やし『古事記伝』という注釈書を著しました。
この著書は、『古事記』の研究の集大成で、当時の人々には衝撃的に受け入れられました。当時、『古事記』は歴史書としてはあまり重要視されず、正史の『日本書紀』の付属的な立ち位置だったのです。しかし、本居宣長によって『古事記』の歴史書としての価値は確立されました。
また、本居宣長は賀茂真淵から古道説を引き継ぎ、儒教の学者が陰陽五行思想や五倫五常など、中国で生まれた儒教の考え方を基にして日本の古典を解釈するのは漢心(からごころ)(中国的なものの考え方)だと批判しました。
神の道は、天照大御神とその子孫にあたる天皇を中心的存在として永遠に存続し、繁栄することにあり、人の道も、この神の道を敬うことから始まるのだと主張しました。
③平田篤胤
(平田篤胤 出典:Wikipedia)
江戸時代後期の国学者で、復古神道を大成した人物です。本居宣長からあとを継ぐ形で、儒教や仏教などの外来思想と習合した神道を批判していました。
その後、儒教や仏教を激しく退けたうえで、外来思想に影響されない日本古来より伝わる純粋な信仰を崇める「復古神道」を大成しました。賀茂真淵・本居宣長から受け継いできた古道説を神道の新たな形として復古神道に発展させたのです。
復古神道が時代に与えた影響
平田篤胤らによって大成された復古神道は、時代の人々や思想にどのような影響を与えたのでしょうか。
結論から言うと、尊王攘夷運動の発生につながります。
平田篤胤が大成した復古神道は、都市部の町人だけでなく、全国の農村の有力者にも広く支持され、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。
のちに、明治維新の尊王攘夷運動の思想に取り入れられることになりました。
まとめ
・復古神道とは、儒教や仏教を排除した日本古来の純粋な神道。
・元禄文化で、朱子学者の山崎闇斎によって儒教と神道の一体化した垂加神道が提唱される。
・化政文化で多くの国学者が輩出され、日本の古典が研究される。
・賀茂真淵によって古道説が唱えられる。
・本居宣長によって『古事記伝』が書かれ、復古神道が体系づけられる。
・平田篤胤によって復古神道が大成される。
・復古神道は全国に広まり、尊王攘夷運動に影響を与えた。