今回は、江戸幕府の終わりから明治維新までに行われた廃藩置県・版籍奉還・大政奉還の特徴や、それぞれの歴史をわかりやすく解説していきます。
目次
大政奉還・版籍奉還・廃藩置県の違い
近い時代に行われた大きな改革ですが、それぞれが持つ意味は全く違います。それぞれの意味をしっかりしておきましょう。
それぞれの意味
✔ 大政奉還……江戸時代末期、第15代将軍徳川慶喜が天皇に政権を返上すること。
✔ 版籍奉還……1869年(明治2)、明治政府が全国の藩が所有していた土地と人民を朝廷に返還した政治改革。
✔ 廃藩置県……1871年(明治4)、明治政府が全国の藩を撤廃し、府と県を置いて中央集権化した政治改革。
ここからはそれぞの出来事について詳しく解説していきます。
大政奉還とは
江戸時代末期、1867年(慶応3)11月9日に、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が、明治天皇に政権を返上することを奏上し、翌日に天皇が奏上を勅許しました。これを大政奉還といいます。
①江戸幕府と朝廷
日本の政権は本来、朝廷にいる天皇が有するものでしたが、平安時代末期から武士が誕生し、政治は武士の手で行われてきました。そして徳川家による江戸幕府では、朝廷から宣下を受けて政治をするという体制にありました。
しかし、開国や日米修好通商条約などによって、開国派の幕府に反対して、朝廷が政治に深く関わってきます。幕府と朝廷の意見の不一致により、国論は開国派と攘夷派に分裂していきました。
②公武合体
幕府の力が弱まっていく一方、幕府はこの状況を打開するために「公武合体」という対応策を打ち出します。
「公」は公家、つまり朝廷を指し、「武」は武家、つまり幕府を指しています。分裂した朝廷と幕府の関係の修復し、「幕府の意見=朝廷の意見」という図式をつくることで、幕府の権威を回復するのが狙いです。
この具体策として、第14第将軍・徳川家茂に対して天皇の妹である和宮を降嫁させました。
③大政奉還建白
幕府は公武合体によって朝廷の不満を抑えるなか、雄藩(勢力のある藩)が進出するのを嫌い、攘夷派であった長州藩らは、やがて倒幕派へと変わっていき、日本は内乱状態に陥ります。
こうしたなか、第15代将軍・徳川慶喜は、土佐藩の後藤象二郎から大政奉還の建白書を受け取ります。
それは、薩摩藩や長州藩とともに、幕府は政治権力を朝廷に奉還し、権力を統一すること。そして、朝廷で新たに議事堂を設置して政治の方針を決定するべきだという内容でした。
④大政奉還の成立
土佐藩による建白書を受け、1867年(慶応3)11月9日、徳川慶喜は「大政奉還上表」を朝廷に提出し、翌10日、大政奉還の勅許(天皇の許可)が決定しました。これにより、大政奉還が成立します。
幕府側の大政奉還の狙いは、薩摩藩や長州藩ら倒幕派による倒幕の動きを阻止するものがありました。しかし、大政奉還に関する文書には慶喜の征夷大将軍職の辞任に関することは一切なく、慶喜は未だ将軍としての地位を失ってはいませんでした。
そのことを知った薩摩藩と長州藩は、大規模な軍事動員を開始します。慶喜はこの動きを制するために、征夷大将軍の辞職を朝廷に申し出ました。
版籍奉還とは
明治維新の一環として、1869年(明治2)7月25日に勅許され、全国の藩が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革のことを、版籍奉還といいます。
①幕藩体制の改革
徳川家が統治していた江戸時代、全国各地は「藩」によって支配されていました。
藩は幕府によって支配されるため、地方分権の状態でした。明治政府が立ち上がったあとも、藩(藩主)が民衆から税を取り立てていました。しかし、戊辰戦争による財政の破綻や、支配関係の弱体化によって、藩体制は危機的状況に陥ってしまいます。
また、天皇を中心とした国家体制を整えようと中央集権化を狙う明治政府にとって、幕藩体制は邪魔な存在でした。
②薩長土肥の版籍奉還
新政府内では、木戸孝允や大久保利通らによって、早くから版籍奉還の必要性が考えられていました。
そんななか、1868年(明治元)11月、姫路藩主の酒井忠邦が藩内の内紛を機に、版籍奉還の建白書を提出します。
そして、1869年(明治2)1月14日、薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助が版籍奉還についての会合を行います。3藩は合意し、肥前藩を加えた薩長土肥の4藩で、1869年(明治2)1月20日、版籍奉還の上表(天皇に対する意見書)を提出しました。
③版籍奉還の実施
1869年(明治2)6月17日、版籍奉還は勅許されます。それにより、元の藩主は非世襲制の「知藩事」に任命されました。知藩事の家禄(収入)は藩全体の10分の1とされました。
こうして、版籍奉還が行われたことで、従来の藩主たちは新政府の行政官吏となったのです。
廃藩置県とは
1871年(明治4)7月14日、明治政府がそれまでの全国の藩を撤廃し、府と県を置いて中央集権化した統一国家を作り上げた明治維新における最大の政治改革のことを、廃藩置県といいます。
①中央集権化をめざす
新政府は戊辰戦争で勝利し、旧幕府の領地や旧幕府方の諸藩の領地を没収して直轄地とし、府・県を置きました。それ以外は各地で藩による支配が続いていました。
しかし、新政府にとって欧米列挙に対抗するための近代国家を作り上げることは急務でした。そのためには、藩による封建的な藩体制をなくし、天皇を中心とする中央集権体制を整える必要がありました。
②藩体制の限界
版籍奉還によって、形式的には中央集権体制は整えられました。しかし、実際は効果がそれほどなく、藩同士の対立や、新政府への反抗的な風潮も現れてきてしまいました。
また、藩の維持ができず、個別で廃藩を願い出る藩や、藩の形式は維持していても、実際は廃藩同然の状態に置かれている藩などがありました。こうして、藩体制の崩壊が顕著になっていきました。
③廃藩置県の実施
1871年(明治4)7月初旬、廃藩置県断行の合意が、西郷隆盛、木戸孝允らの間で成立し、秘密裏に準備が進められました。そして7月14日、明治政府は東京にいた知藩事を招集し、廃藩置県を命じました。
藩はそのまま県となり、全国で3府302県となりました。また、知藩事は失職し、東京への移住を命じられました。知藩事の代わりに、各県には県令が派遣されました。
こうして、全国の県・府は新政府の直接統治のもとに置かれることになりました。
まとめ
・大政奉還は、第15代将軍徳川慶喜が天皇に政権を返上すること。
・力が弱まった幕府は「幕府の意見=朝廷の意見」という図式をつくる公武合体で、権威を取り戻そうとした。
・版籍奉還は、明治政府が全国の藩が所有していた土地と人民を朝廷に返還した政治改革。
・幕藩体制は地方分権の状態。明治政府は中央集権を狙っていた。
・廃藩置県は、明治政府が全国の藩を撤廃し、府と県を置いて中央集権化した政治改革。
・財政難や対立によって、藩の維持が難しくなっていた。
・藩は県になり、知藩事の代わりに各県に県令が派遣された。