【御成敗式目と武家諸法度の違い】わかりやすく解説!!意味や特徴など

 

歴史の勉強をする上で御成敗式目と武家諸法度は混乱しがちです。

 

今回は『御成敗式目と武家諸法度の違い』についてわかりやすく解説していきます。

 

御成敗式目と武家諸法度の違い

 

 

御成敗式目と武家諸法度は制定された時代も目的も異なります。しっかりと区別して覚えるようにしましょう。

それぞれの意味

御成敗式目(ごせいばいしきもく)…鎌倉時代に日本最初の武家法として定められた法令。

武士の争いをなくすことが目的として、源頼朝以来の慣習や判例などに基づいて、行政・訴訟に関して定めています。特徴としては武士の権利義務や領地、相続の規定が多く定められています。

武家諸法度(ぶけしょはっと)…江戸時代に江戸幕府が大名を対象として制定された法令。

武家諸法度の武家は諸大名のことを示し、大名同士が争うことや幕府に反抗しないよう幕府の治世が安定することを目的として制定されました。

制定当初は13ヶ条でありましたが将軍の交代とともに改訂されていきました。3代将軍徳川家光の代では参勤交代の制度や大船建造の禁などの条文が加えられ、19ヶ条になりました。

 

御成敗式目は鎌倉時代の武家法、御成敗式目は江戸時代の大名を統制するために幕府が定めた法と言えます。

 

それぞれについてさらに詳しくみていきましょう。

 

御成敗式目について詳しく

 

 

 

御成敗式目は鎌倉時代、1232年に北条泰時によって制定されました。別名「貞永式目(じょうえいしきおく)」とも呼ばれています。

 

内容は51条に分かれていて、源頼朝以降の武家社会の慣習と道徳が基本となっています。

 

①御成敗式目ができた背景と目的

御成敗式目が制定された背景、目的は大きく3つに分けることができます。

1つ目は、鎌倉時代という時代に合った法律を作るため

2つ目は承久の乱以降の幕府政治の統治力を高めるため

3つ目は寛喜の飢饉に対する政策のため

 

順に詳しく解説していきます。

 

鎌倉時代は公家や貴族の時代から武家社会に変わった時代です。それまでの政治制度を記載した法律や律令が、武家社会の習慣や文化には合わなくなってしまいました。

 

また、表記の仕方も漢文であったため十分な教養がないと読むことが難しく実用的ではありませんでした。そこで北条泰時は、武士たちにもわかりやすい文体で記載した御成敗式目を制定したのです。

 

また1221年の承久の乱以降、勢力を強める鎌倉幕府は特に武家に対してルールを設けることで各地で争いごとが起きないようにし、統治力を高める必要がありました。

 

1230年に天候不順によって全国的に起きた「寛喜の飢饉」は、鎌倉時代最大の大飢饉でした。各地の地頭の過酷な年貢収奪や不法行為を抑えることや、人身売買を明確に禁ずることで不安に満ちた社会情勢を変える目的があったのです。

 

②御成敗式目の内容

御成敗式目の内容は全51条のうち、18条が領地関係の規定となっています。それだけ、当時の武士にとって領地というのは大切なものだったと言えます。

 

御成敗式目の制定において領地関係に重きをおいた理由として、承久の乱で鎌倉幕府が上皇軍を倒し西国に支配を広げていったことが背景にあります。

 

新たに支配した土地で鎌倉幕府から派遣された役人と、西国の有力者や住民との間に土地をめぐる揉め事などが増加したのです。そこで、北条泰時は武士を統率することで、幕府が治めている地で争いごとが起きないようにしようと、武士のための法律を作ることにしたのです。

 

具体的には諸国の地頭は年貢を必ず荘園領主に納める、諸国に配置されている守護は皇室警護や犯罪人を取り締まるなどの内容となりました。

 

③御成敗式目が制定されたことによって

北条泰時が制定した御成敗式目は、源頼朝が幕府を作って以来の習慣や判例、道理をもとにしたものであったため、当時の時代では常識的な内容で実用的な法律となりました。

 

そして、御成敗式目は後世の長きにわたって効力を持ち続けていく法令となり、室町時代・戦国時代・江戸幕府に至るまで条文が追加されたりしながらも受け継がれていったのです。

 

日本で初めての武家法は明治時代になって近代的な法律が作られるまでの長い間、日本の武士の法律として機能していきました

 

武家諸法度について詳しく

 

 

武家諸法度は、大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家康が嫡男である徳川秀忠の命という形で1615年に大名に対して発布されました。

 

当時、大名の中には、徳川一族の人や、豊臣秀吉の家臣だった人などがいました。そのため、永く徳川家の将軍が安定的に支配していくためには、将軍と大名の関係を主君と家臣の関係にし、忠誠を約束させることが必要になったのです。

 

武家諸法度はこうして発布され、将軍が代替わりする都度改訂されながら定まっていきました。

 

①武家諸法度ができた背景と目的

1615年の大阪夏の陣によって豊臣家を滅亡させた江戸幕府は、同年のうちに武家諸法度を発布しました。その背景には徳川幕府として政権の安定と維持にいち早く取り組みたいという思いがありました。

 

 

徳川家の世が永く安定して続くことを強く願っていた徳川家康が将軍職に就いてわずか2年で秀忠に代替わりしたのも、徳川家が代々江戸幕府を引き継いでいくということの意思表示と捉えることができます。

 

各地の大名たちが幕府の命令を守り、忠誠を誓うことや幕府の命令に背いた者を隠さない、などの大名に対する禁止事項をまとめた武家諸法度は、誓約書を書かせることで大名が将軍への忠誠を約束するという形で始まりました。

 

②武家諸法度の内容

武家諸法度は江戸幕府が大名に対して制定した法律で、その内容は「大名は、新しく城を造ってはいけない」、「許可なく結婚をしてはいけない」など、全国の大名を厳しく統制することで徳川家の支配をより強めようとした内容になっています。

 

徳川秀忠によって出された最初の武家諸法度は13ヶ条から成り立っていました。

 

その後、武家諸法度は将軍が変わると共に改訂されていきました。3代将軍徳川家光によって参勤交代と500石以上の大船の建造禁止が追加されました。

 

特に参勤交代は武家諸法度の変化の中では歴史上、大きな出来事とされています。そのため、「武家諸法度が定まったのは3代将軍家光のとき」というように表現されることもあります。

 

③武家諸法度が制定されたことによって

武家諸法度の制定、改訂によって徳川家による江戸幕府の体制は益々強固なものになっていきました。

 

特に、3代将軍家光の時代の改定によって諸大名への締め付けがさらに厳しくなり、幕府による支配体制が確立されたといえます。

 

まとめ

・御成敗式目は鎌倉幕府の基本法典であり、日本で最初の武家法である。

・御成敗式目を定めたのは執権北条泰時で、対象は武士。

・御成敗式目の目的は、武士の争いに対する裁定基準を設けることで衝突に発展しないことを目指した。

・武家諸法度は江戸幕府が大名の統制を目的として定めた。

・武家諸法度は徳川家康が徳川秀忠の命ということで定めさせた。対象は諸大名とされている。武家諸法度の武家とは大名のことを示す。

・参勤交代は3代将軍徳川家光の時に武家諸法度に加えられた。