今回は秋月の乱が起こる原因、乱の流れ・中心人物・結果などについてわかりやすく解説していきます。
目次
秋月の乱とは
(秋月の乱 出典:Wikipedia)
秋月の乱(あきづきのらん)とは、1876年(明治9年)に起こった明治政府に対する士族(武士)の反乱のことです。
この時期、薩摩・長州・土佐・佐賀などの武士が日本を守る「官軍」という役割をしていたのですが、これだけでは不十分と考え日本国民全員から兵士を集め、武士の刀を取り上げ、どの身分にも武士しか持たなかった苗字を認めたのでした。
これには、プライドを持った武士たちが猛反発。そして、各地に反乱がおこったのです。
秋月の乱の原因『明治政府の刀狩りと徴兵令』
明治政権の基本的な考えは「武士(士族)に各藩を守ってもらう」というものでした。
しかし、政府はこれからの日本のことを考えるとこの官軍だけでは国を守れないと思いました。そこで「徴兵制」を行って日本の軍隊を作ろうと考えたのです。
ただ、強い軍隊を作るだけならば、武士たちも賛成しましたが、政府は1つの軍部の人間関係が上手くいくと思えず、武士たちの特権を取り上げる(刀を取り上げ、武士の身に許可していた苗字を国民全員に与えるなど)ことを決めました。
全国民から軍隊の兵士を集めることにしたのです。
今まで畑を耕していた者、商売をしていた者だって、これには困りました。「徴兵令」とは突然兵役をやらされることでもあるのです。
逆に武士という名前ばかりの貧しい武士は、その身分だけが自身のプライドでもありました。貧しく落ちぶれていても、刀を持った武士であること。
こういう立場の武士はたくさんいて、刀を取り上げられることは想像以上にプライドを傷つけられることだったのです。
この「徴兵制」で、藩を守るために活躍していた武士はもちろん、どの身分の人たちもそれなりに混乱していたのです。
秋月の乱の勃発&流れ
1876年に熊本県で神風連の乱が起こります。
秋月の乱はこれに反応した現在の福岡県秋月市の武士たちが起こしたものです。
当時秋月藩の士族である宮崎車之助・磯淳・戸原安浦・磯平八・戸波半九郎・宮崎哲之助・土岐清・益田静方・今村百八郎ら約400名が反乱を起こしました。
今村百八郎が隊長となった「秋月党」が兵を挙げました。
最初に明言寺で説得した警察官の穂波半次郎を殺します。豊津藩(現在の福岡県北九州市小倉)の士族・杉生十郎らと話を済ませてあったため、この後豊津へ向かいました。
しかし、杉生十郎らは捕らえられ監禁されていました。豊津藩は兵を挙げないと決めていました。
豊津の連絡を受けて来た大日本帝国軍・乃木希典率いる小倉鎮台(鎮台は日本陸軍の編成単位のこと)が秋月党を攻撃します。
秋月党は17名の死者を出し、江川村栗河内(現在の福岡県朝倉市大字江川字栗河内)へ逃げます。
そして、秋月党は解散。事実上「負け」。この場所で7名が自ら命を絶ちました。
まだまだ戦う意思の強い今村百八郎ら26名は現在の秋月に戻ります。秋月小学校にあった秋月党討伐本部を襲い、県の高官2名を殺害しました。
また、士族が捕まっていた酒屋を焼き払ってからバラバラに逃亡したが、11月24日に逮捕されました。
秋月の乱の結果
秋月の乱は、大日本帝国陸軍vs秋月党という図式の戦いになりました。
結果、大日本帝国軍の死者は5名、秋月党の死者は17名。
福岡臨時裁判所で、首謀者・今村百八郎、宮崎車之助はその日のうちに斬首。他、150名は懲役、除族(士族から追放)などの懲罰がくだされました。
秋月の乱の史跡
1965年、波半次郎屋敷跡に「秋月郷土資料館」が開設されました。ここには、秋月藩の幹部の辞世の句(人がこの世を去るときに詠む詩)が残されています。
2017年に「朝倉市秋月博物館」に名前が変わるに伴い、場所も秋月藩校「稽古館」跡地に新築されました。理事長は旧秋月藩主黒田家当主の黒田長栄氏です。
秋月の乱の中心人物と熊本鎮台について
①宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)
1839~1876年 江戸時代末期~明治時代
秋月藩士の次男坊として誕生。
廃藩置県(藩を廃止、府県を置く法)後、政府に反発し武士の力が集まり国が変わることに期待し、心を尽くし、動いた人物。
秋月党の豊津藩に敗れ、斬首される。
②今村百八郎
1842~1876年 江戸時代末期~明治時代
宮崎車之助の弟。今村家の養子となる。
兄・宮崎車之助と共に秋月党の指導者となって、斬首された。
③乃木希典
1849~1912年 明治時代~大正時代
大日本帝国陸軍の指揮者で、秋月の乱をおさめた政府軍の代表。
武士の家に生まれたが軍人、教育者であった。
明治天皇を大変慕い、天皇死後、後を追って自殺した。
④小倉鎮台
1871~1888年におかれた日本陸軍の編成単位が「鎮台」で、常設するものでは最大の部隊単位だった。
鎮台の設置と徴兵制実施は近代陸軍の始まりと言わた。
鎮台は、明治政府の軍隊「御親兵」の跡を継ぐもので、全国に5か所設置された。
「仙台鎮大」「名古屋鎮大」「大阪鎮台」「広島鎮台」「熊本鎮台」で、熊本鎮台は士族の反乱時に大活躍した。
このうち「熊本鎮台」は11部隊の熊本と12部隊の小倉に分かれます。秋月の乱で活躍したのは12部隊の小倉鎮台なのです。
まとめ
・秋月の乱とは1876年に起こった明治政府に対する士族(武士)の反乱のこと。
・薩摩・長州・土佐・佐賀などの武士が日本を守る「官軍」だった。
・明治政府は官軍だけだと日本を守れないと考え武士の特権を取り上げる廃刀令(刀を持たせない)と徴兵令(全国民にも兵士を集める)を定めた。
・熊本県の神風連の乱に反応した秋月藩(福岡県秋月市)の武士たち約400名が反乱を起こした(秋月の乱)。
・今村百八郎と宮崎車之助が指導者となった「秋月党」。
・警察官の穂波半次郎殺害。
・豊津藩の杉生十郎と手を組んだが杉が監禁され、大日本帝国軍の乃木希典率いる小倉鎮治に攻撃され撤退。
・鎮台とは親兵制を引き継ぐ軍隊の部隊単位。
・熊本鎮台は全国5か所に日本に設置された部隊の1つ。
・熊本鎮台は2つに分かれ、秋月の乱は12部隊小倉鎮台により圧された。
・秋月党17名の死者、大日本帝国軍5名の死者。
・今村百八郎らは秋月に戻り県の高官2名殺害、士族を捕らえた酒屋を焼き払う。
・福岡臨時裁判所で今村百八郎・宮崎車之助斬首、他150名懲罰。
・旧秋月藩主黒田家当主黒田長栄氏が秋月藩校のあった「稽古館」跡地に【朝倉市秋月博物館】開設、理事長になる。