【琉球処分とは】簡単にわかりやすく解説!!理由や目的・背景・流れ・問題点

 

明治の初めごろ、日本周辺の国境はいまよりもずっとあいまいでした。

 

特に現在の沖縄県にあたる地域は琉球王国があって、琉球王国は日本の薩摩藩と中国の清王朝の両方とつながっていました。

 

琉球を日本と清のどちらがとるか?この争いに決着をつけたのが琉球処分です。

 

今回はこの琉球処分について、わかりやすく簡単に解説していきます。

 

琉球処分とは

(沖縄県 首里城本殿)

 

 

明治政府が沖縄にあった琉球王国を日本国に併合する一連の動きをさします。

 

琉球王国を琉球藩とし、1879年(明治12年)に沖縄県と改めて日本の領土にしました。

 

琉球処分の背景

(按司 右"大礼服" 左が"通常服"。 出典:Wikipedia

①琉球王国の成立。昔、沖縄は独立国だった

12世紀、各地を有力者である按司がおさめていました。

 

しかし、14世紀になると沖縄本島は北山・中山・南山の三つの勢力にまとめられます。(三山分立)

 

そして、1429年に三山の一つの中山王尚巴志が沖縄本島を統一し琉球王国が成立しました。尚巴志は宮古を首里城に置きました。

 

②繁栄する琉球王国

沖縄県を中心に周辺地図を見ると、北に日本や朝鮮半島、東に中国や台湾、南にフィリピンなどが見えます。

 

実は、琉球王国は東シナ海のど真ん中にあり、各国を結ぶ航路の中心にありました。

 

琉球自体に特産物がなくても他国の品々を売り買いすることで十分利益を上げることができたのです。この貿易を中継貿易といいます。

 

琉球王国は明の皇帝に貢物を贈り、見返りとして多額の明の商品(朝貢貿易)を得ており、この品物を日本や東南アジアに販売することで利益を上げていました。那覇港は明・日本・朝鮮と東南アジア諸国を結ぶ国際的な港として栄えました。

 

③薩摩藩による琉球支配。琉球は薩摩藩に年貢も納めた

琉球の貿易に目を付けたのが薩摩藩。

 

薩摩藩は徳川家康から琉球を征服する許可を得ると1609年に薩摩軍を送り込んで琉球王国を征服しました。

 

薩摩藩は琉球で検地を行い、琉球王国に支配に従い年貢を納めるように命じました。

 

④琉球王国の立場。薩摩藩と明・清両国に従う微妙な立場

薩摩藩は琉球が行っていた明との貿易(明が滅んだ後は清)の利益を確保しようと考えます。

 

しかし、薩摩藩は琉球と違い幕府に無断で明と貿易することはできません。

 

そこで、琉球王国を完全に滅ぼすことはせず、琉球に貿易をさせてその利益を取り上げることにしました。

 

そのため、琉球王国は貿易の上では明に貢物をささげて従い、実際には日本の薩摩藩の支配を受けるという両属という微妙な立場になってしまいました。

 

⑤幕末の琉球王国。琉球も欧米列強の脅威にさらされていた!

幕末のころになると、琉球王国に欧米各国の船が訪れるようになりました。欧米諸国は琉球に開国を迫ります。ペリーもその一人です。

 

ペリーは首里城に入城し国王に米大統領からの書簡を渡して開国を迫りました。

 

日米和親条約を結んで帰国する途中、ペリーは再び琉球に立ち寄り琉球を開国させました。

 

琉球処分の目的・理由

 

 

幕末以降、日本は欧米列強の脅威にさらされてきました。

 

もっとも急がなければいけなかったのはどこまでが日本の領土かという国境を決めることでした。

 

明治維新でできた新政府は、国境線を確定させていきます。

 

そして、ロシアとの交渉で択捉島以南を日本領とし、小笠原諸島の領有宣言を行ったりしていきました。

 

結局、日本と清のどっちつかずの状態になっていた琉球についても国境確定の対象になったのです。

 

琉球処分の経過

(琉球藩の印 出典:Wikipedia

①琉球藩の設置

新政府は、それまで独立国として扱ってきた琉球王国を日本の領土として扱い始め、1872年に琉球王国は琉球藩とされます

 

藩とすることで琉球が日本の一部であると外国にアピールしたのです。

 

これにより、琉球は外交権を失いました。1876年には裁判権や警察権も琉球は失ってしまいました。

 

②琉球藩と清国の関係

琉球王国の時代、清国に対してたびたび使者を派遣していました。進貢使です。

 

政府は「琉球藩には外交権がないから、勝手に清国に使いを送ってはいけない。清とは絶交しなさい」と命令します。琉球藩は清国との関係存続を政府にお願いしましたが、政府は拒否しました。

 

③沖縄県の設置

1879年、ついに日本政府は実力行使に踏み切ります。

 

軍隊と警察を琉球に派遣し首里城の明け渡しを迫りました。

 

琉球藩王の尚泰は明け渡しに応じ、これと同時に琉球藩の廃藩と沖縄県の設置が宣言されました。この琉球王国を日本国に併合する一連の流れを琉球処分といいます。

 

その後、琉球藩王尚泰は華族となり東京に住むことを命じられました。

 

琉球処分のその後

(尚 泰王 出典:Wikipedia

①清国の反発

清は1866年に尚泰王を琉球国王に任命していました。

 

つまり、清は琉球は清に従う属国だと考えていました。

 

その属国を日本が一方的に併合するなど到底納得できることではありませんでした。

 

②沖縄県設置後の領有問題

緊張した日清両国は1880年に沖縄に関する交渉をします。

 

アメリカの元大統領のグラントが間に立って調停。グラントが出した案は次の通りです。

アメリカの案

①沖縄を2つにわけ、先島諸島は清国に譲る

②日清修好条規を改めて、日本にも欧米と同じ特権を認める

 

これに対して、清国代表の李鴻章は次の案を提案しました。

清国の案

①沖縄を三分割し、先島諸島は清の、奄美諸島は日本の領土する

②沖縄本島は独立させる

 

交渉の結果、日清両国はグラントの案で合意します。

 

しかし、清国が調印しなかったのでグラント案は結局、廃案になりました。

 

その後最終的には、日清戦争で日本が勝利し、先島諸島を含む沖縄全島を日本が領有することでこの問題は決着しました。

 

 

琉球処分の問題点

 

日本本土と比べると実施時期は遅くなりますが、沖縄県でも日本と同じ政策が実施されていきました。

 

徴兵制・地租改正・衆議院の選挙なども同様に行われるようになったのです。

 

急速な日本化によって琉球王国以来の伝統や文化が変質していったといわれます。

 

また、日本本土からやってきた人々の砂糖畑経営などは地元との軋轢を生んだと言われています。

 

まとめ

・琉球処分とは明治政府が行った琉球を日本に併合する一連の出来事を指す。

・中山王尚巴志が琉球王国を建国した。

・琉球は東シナ海の終身にある利点を生かして中継貿易で栄えた。

・琉球は薩摩藩に征服された後も明・清と貿易をつづけた。

・明治政府は琉球王国を琉球藩とした。

・琉球藩が廃止され、沖縄県が設置された。

・清国は琉球処分に反対したが、日清戦争で日本が勝利して沖縄領有が確定した。